2018年8月31日 (金)

喫煙者に特権は無い

以下は数社で見てきたし、吸う側の人も、それを見ている人も
「そうだね」と「内心」でも共感してくれる人は多いと想像する。

タバコが好きな人は本当によく吸う。
1日に何本もという人は多いだろう。
私が社会人になった1980年代は、多くの会社でまだ
「仕事部屋の中でもOK」の時代だった。
その後、次第に喫煙者にとっては肩身が狭い思いをする状況
になっていったのは誰もが知るとおり。

昨今はどの会社でも社内禁煙は当然で、それゆえ、
ビルの内だったり外だったりで喫煙場所が設けてあるのだが、
愛煙家の人は本当に「よく吸いに行く」。

1時間に1回くらいの頻度で喫煙所に行く人も少なくないのでは
ないか。それって「業務中」ですよね。

私を含めてタバコを吸わない人は、内心こう思っている
ことだろう。
「リラックスタイムを自由にたくさん設定できて良いですね」、と。

すると愛煙家は大抵こういう理屈を付けたがる。
「喫煙所もコミュニケーションの場なんだよ。場合によっては
 (密談も含めて)重要な情報交換の場なんだよ」、と。

なるほどそうですか。では、吸わない人にも
「特別な情報交換の場」や、「頻繁なリラックスタイム」が
あってもいいですよね?

吸わない人が1時間に1回の頻度で会社の内外をフラフラ
 「散歩」しようもんなら、たちどころに職務怠慢という
ウワサが立つに違いないし、場合によっては
上司等から注意を受けるだろう。

だが、吸わない人間から見ると、愛煙家の喫煙所への頻繁な
「お通い」は、それこそ怠慢に見える。

業務時間中のウトウト(睡魔による短い居眠り)は論外だが、
吸わない人からしたら、愛煙家の喫煙のための頻繁な「席外し」は
「そのへんをフラフラ遊び歩く事となんら変わらない」し、
更にキツク言うなら「居眠りと同じ」に思える。

公平性を期すなら、吸わない人も1時間ごとのコーヒータイムを
設けるべきだろう。しかし、現実にはそれは難しい事だろう。
ではなぜ、喫煙者は「優遇」されているのだろうか?
不公正、不平等すぎる。

2018年8月24日 (金)

九州男の器の小ささんついて

2018年8月17日 (金)

エクセル文化と閉口する字の小ささ~CD解説文等

俳優の渡辺謙さんと菊川怜さんが出演している「ハズキルーペ」のCMで、渡辺さんが叫ぶ「世の中の文字は小さすぎて、読めないっ!」に大いに共感する。
中年となり老眼が進みだすと尚更だ。

印刷技術に関しては若い人は知らないであろうガリ版印刷からコピーに進化し、記述そのものは、手書き以外での機械化としてはタイプ打ちに始まり、1980年代前半にワードプロセッサーが登場して便利になり、更にパソコンの普及でワードが広がった。

字の小ささが多用されるようになったのは、ワードとともに普及したエクセルの高度化だろう。
フォントの自在さはワードを凌ぎ、複雑な表等の作成と相まってエンジニアだけでなく、一般企業の資料作成等における文書も今ではエクセルが主流とも言える。

インターネットとともにエクセル文化が拡大普及し始めた1990年代後半から2000年前後は、若い人がエクセルを得意することで、ともすれば、おじさん衆をバカにする(下に見る)かのような風潮すら生じた時期もあった。今では50代でも私のように60代でもエクセルなんぞ「普通に使えます」のだが。

それにしても、LPレコードからCDに移って全体が小さくなり、加えて文字表記(フォントの自在化等)の進化とともに、CDの解説文もまた当然小さい文字で書かれている。

特にポップス系のCDだと、ページ自体に色彩が施され、しかも例えば茶系統のページに茶系統の文字、銀系統のページに銀系統など、同系統の文字で書かれていようものなら、まずほとんど読めない。
解説だけならともかく、歌詞が読み難いことも多くて本当に呆れるほどに閉口する。ついでにいうと、終わり近くのページに記載されるプロデューサーの名前などが日本人でも漢字ではなく、アルファベット表記が増えてきて、「生意気に」と嫌悪感すら覚えることがある。

会社の資料も、得意気に小さな字で細かく資料を作る人がここ10年くらいで当たり前のように増加した。技術の上達は結構だが、読み難かったら、資料としてそもそも不便なのだ。
読めない資料や、CD解説文、歌詞などは「意味がない」に等しい。

2018年8月16日 (木)

カッコイイ尾畠春夫さん

山口県で行方不明になっていた藤本理稀(よしき)ちゃんを探し当てたのは、親族でも警察でもなく、大分県から来た78歳のボランティア尾畠春夫さん。「今朝起きて、見つかる気がしたから来た。子供は上へ登りたがるから、上だと思った」と語り、捜索隊が活動する前の午前6時に沢へ入って行き、30分ほどで発見。警察や消防にそういう発想は無かったのだろうか? 理稀ちゃんの祖父ら親族から「家に上がって、風呂でも入って」を「いえ、結構です」と断った。

尾畠さんは語る。「俺は学歴はないけど、65歳まで魚屋をやり、65歳でピタリと辞めて、残りの人生を社会にお返しする、と決めだ」と。そして全国各地で車中泊しながら、ボランティア活動。2004年の新潟県中越地震でもボランティア活動に参加。「3.11」では南三陸町で被災者の思い出の品やアルバム写真などを、がれきの中から探す活動である「思い出探し隊」の隊長として活動。
2015年の東日本豪雨、2016年の熊本地震にも趣き車中泊をして作業に参加。その他、その後ボランティアで由布岳の登山道を整備するために月に7-8回ほど40キロもの材料を担いで整備、案内板の設置を行っている。

尾畠さんの実際の活動は実は65歳からではなく、「平成24年度ごみゼロおおいた作戦功労者表彰受賞者」で表彰されていて、そこには活動年数23年との記載があるから、清掃活動は49歳から行っていることになる。しかも必要資材は自費で用意している。

気持ちの優しさと志の高さだけでなく、それに耐えうるためか、ボランティア活動のない日は今でも朝、8キロのジョギングをするというし、40歳の時に登山を開始。58歳で北アルプスの55山を単独制覇。2006年4月1日に鹿児島県から北海道まで日本列島を徒歩で横断する旅に出て3ヶ月かけ2006年7月1日に約3000キロを歩き制覇、というから、ボランティアに限らず、アクティビティな点でもプロだ。
こんなカッコイイ78歳もいるんだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それにしても、山口県の2歳児、無事発見は良かったけれど、2歳児が「家に帰りたい(戻りたい)」と言い、一人で帰らせたお祖父ちゃんはマズかった。生還したからいいようなもの、祖父として大失態。2歳児を一人で歩かせるかなあ。
https://www.asahi.com/articles/ASL8J324PL8JTIPE002.html
https://sarattosokuhou.com/news/obata-haruo/

2018年7月31日 (火)

退屈だったNHKスペシャル~アインシュタインの脳構造ルポ

~興味の本質とは何か?
NHKスペシャルは素晴らしい内容が多いが、29日21時放送の
アインシュタインの脳に関するルポは近年稀にみるほど退屈
だった。
そもそも彼の脳が、研究のためとはいえ~遺族が同意した事
とはいえ~分解されて多くの研究者がその断片を保有している
こと自体、「人間の尊厳としてどうよ?」と思うし、
それを集約して彼の「脳の特異さ」もっと言うと「脳の偉大さ?」を
研究したところでどうだと言うのだろう。

「やはり不思議な稀有な脳構造だ」と言われても、
「まあ、あれだけの天才なんだから、そうなんでしょうね」で
終わる気がする。

私たちがベートーヴェンやモーツァルト、あるいはビートルズや
エディット・ピアフに関心を持ち、感動するのは彼らが成した
パフォーマンスに対してであって、
仮にここにベートーヴェンやモーツァルトの脳があり、
誰かが研究して「やはり凡人と違う」と結論付けたところで、
「ああそうですか。そうなんでしょうね」としか言い様がない。

夏目漱石を始め何人かの有名人の脳はそのままの形で
東大医学部にホルマリン漬けで保存されているはずだが、
どういう結論が出ていようといまいと、
私達が興味を持つのは彼の作品であって脳構造ではない。

写真で残るショパンやリストの手形には一瞬興味は持つが、
すぐ忘れ、関心はひたすら作品に向かう。
ラフマニノフやポリーニの手が大きい、大きかったことは
ピアニストに関心ある人なら皆知っているし、
ピアニストにとって手は小さいよりは大きいほうが
何かと有利、便利ということも知っているが、
結局のところは、興味は、そういうことを通り越して、
どういう演奏をしたのか?しているのか?ということに尽きる。

偉大な歌手の声帯に関心は皆無でないにしても、
それでも結局のところ、少なくともファンにとって関心が
有るのは声帯構造自体でなく、声の魅力や歌唱力等なのだ。

科学者と音楽家を同列で論じられるか否かは知らないが、
アインシュタインの功績こそ論じられ~実際に
世界中の多くの同業者や研究家が論じてきた~
これからも考察され語られることが重要なのであって、
彼の脳構造は単なる「あ、そうなんですね」の
関心の域を出ない。

2018年7月21日 (土)

災害時の演奏会という問題~広島での第九

以下は批判というより疑問的感想なので、軽く受け止めてください。

知り合いの歌手がフェイスブックにアップされていたので知った
のだが、西日本の豪雨被害が続く中、7月12日に
広上淳一指揮、広島交響楽団により「夏の第九」と題された
演奏会が広島市内で開催された。

この時期に、と正直感じるものの、想像しない災害より
ずっと以前から企画されていた演奏会だし、
ソリスト等出演者には罪は無いし、合唱団もこの日のために
練習してきたわけだし、プログラムを見ると、
前半には国際的ホルン奏者バボラクさんを迎えているなど、
様々な要因から、なかなか簡単に中止にはできなかっただろう。

「3.11」と違って余震が続くとか、原発問題が生じたわけで
はないので、あのときとはもちろん単純に比較できないのは解る。

ただ、会場で募金活動が急きょ展開されてかどうかは、
誰もその点を報告していないので判らない。
あったのかもしれないが、無かったとしたら腑に落ちない。

そして特に、出演者の1人が、フェイスブックでで、
居酒屋での打ち上げ写真をアップされていたのを見たときは
さすがに強い違和感を覚えた。

広島市内では大きな混乱は無かったのだろうけれど、
同じ県内だけでも、当時でさえ既に数十人の死者が出ており、
多くの人が家屋に損害が生じて、避難生活を強いられ、
熱さと衣食住で苦しんでいた時期だ。今もそうだが。

様々な事情があったにせよ、あの時期で「歓喜の歌」は
どう響いたのだろう?
どういう気持ちで歌っていたのだろう?

もしやベートーヴェンは、
「僕はそんなに呑気な意味でフロイデ(歓喜)の曲を
 作ったんじゃないんだけどな」
とボヤいたかもしれない。

とはいえ、想像していなかった、いわば偶然の自然災害。
そしてずっと前から多くの人が関わるかたちで計画されていた
演奏会。
批判するのはたやすいが、これは考えてみれば、
私を含めて誰でも主催者側、あるいは出演者側になりうる問題
でもある。
ちょっと厄介な難しい問題ですね。
http://music-peace.jp/ticket02/index.html
http://hirokyo.or.jp/concert/list/8284.html

2018年7月14日 (土)

西日本の豪雨災害と東日本の呑気さ

以下は、1つの想像(推測)にすぎないが、
広島、岡山を中心とした西日本広域の豪雨被害が凄まじい
のに、関東圏は比較的穏やかなためか、まるで
「他人事のような呑気さ」が気になる。

自然災害の広域度合い(範囲)からすれば「3.11」以降
最大なものなのに、あの時と違って東京には地震や大雨が無く、
原発問題が今のところは生じていないこと。

あるいはもしやと追加してみるなら、
「山間の集落で暮らしている人々」、および、
川の増水と堤防等の決壊による大量の人家への浸水という
「川周辺に住んでいる人々」という点で、いわば
「そういう所に住んでいる人々の不運」として認識するに留まり、
深刻には自分に置き換える、すなわち、
日本国全体の問題として考えるまでに、
私を含む関東(以東)の人だけでなく政治家さえ、至っていない
からではないか?と勝手に推測する。

倉敷音楽祭は3月に終わっているが、
これがもし今月以降なら、関係者を含めて、
国内にもっと違う認識が広がっているように想像する。

2018年6月 8日 (金)

子供たちの未来は大人の責任

船戸結愛ちゃんの虐待死に私を含めて多くの人があの両親に憤っている。
これまでにも、どうして親からイジメられるのか理解できぬまま亡くなっていった幼子が国内だけでもたくさんいる。
それに対して私たち社会が関心が低いままいた。

本日より公開される映画「万引き家族」を2日に先行上映で観たが、あの作品の中にも、結愛ちゃんほどでないにしても親から虐待されている少女が登場する。
ネタバレで言えば、ラストシーンはその少女のシーンで終わる。彼女が見つめる先に希望があるのかどうかは全く判らない。
あの少女の未来を是枝監督は我々に突き付け問いかけて終わる。
明るい未来であって欲しいと誰もが思うが、それは誰にも判らない。

結愛ちゃんは香川県に住んでいたとき、2回も児童相談所に保護されたという。しかしその都度、父親は不起訴処分となっている。そして都内に転居後、虐待の度合いは増したようだ。
香川県から引き継いだ品川児童相談所が出向いたが、結愛ちゃんに会わせてもらえないまま、その中での死亡事件となってしまった。

児童相談所だけでは限界があるだろうから、司法を含めて、もっと強権的な対応で保護下に置くなどにより、社会は子供たちを守らねばならないだろう。
第二第三の結愛ちゃんを出さないために。

2018年4月26日 (木)

2つの認定~セクハラとパワハラ

1つ。財務省が福田前事務次官のセクハラを認定し、
調査を終える、とした。
要するにサッサとケリを付けて終わらせたいだけで、
そのために「先輩、セクハラですよね。かぶってくださいな」と
「切り捨てた」に過ぎない。
ある意味、福田氏をかばい続ける麻生大臣をも蹴飛ばした決定
と言える。
だが、もちろん、福田氏本人にセクハラを認めさせなければ
本質的な収束とは言えない。

1つ。内閣府が伊調馨さんに対する栄和人氏のパワハラを
認めた。当然のことだが、これも、
「ウチなんぞに、こんな問題持ち込むなよ、
 日本レスリング協会さんよ、しっかりやってくれよ」、と
一種の煙を払う認定のイメージを受ける。
まあ、それで結構だが。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180427-00000051-mai-bus_all
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180427-00000050-mai-spo

2018年4月19日 (木)

自信のなさが表れる言葉

柳瀬元総理秘書官は「記憶の限りでは、会っていない」と
言った。なぜ「会っていない」と言い切らないのか?

そもそも「記憶の限りでは」というのは日本語になっていない。
中学生だって「そんな日本語はない」と理解できる。
少なくとも東大法学部、通産省(当時)というコースを
たどる人間が使う言葉ではない。

福田事務次官は「事実とは異なるものと考えている」と
言った。なぜ「事実とは異なる」と言い切らないのか?
2人の自信の無さ=ウソが言葉の中に見事に表れている。

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