鐵 百合奈さん
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田部京子さんが浜離宮朝日ホールで展開してきた「シューベルト・プラス」のシリーズ第10回を12月4日午後、同ホールで拝聴した。
プログラム最後にシューベルトのソナタ第21番を置くリサイタルは昨年もあったし、前半のブラームスも含めて、最下段に記載の演奏曲やその構成は、「以前、見たような、似ているような」という印象を受けるが、それもそのはず。この日は、「シューベルト・プラス第10回・最終回特別編」と銘打ち、来年CDデビュー30周年を迎える田部さんが、これまでのシューベルト・プラスのシリーズの中からアンコール・セレクションとして組まれたプログラムだった。
田部さん自身がその思いをプログラムに寄稿されているので、それは最後にご紹介します。
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1曲目は、ブラームス「4つの小品」Op.119
第2曲ホ短調、第3曲ハ長調の「間奏曲」、第4曲変ホ長調の「ラプソディ」は、いずれも「動き」が顕著な曲で、特に「ラプソディ」では集中力と熱量のある演奏で聴衆を魅了したが、最も田部さんらしい美点を示していたのは、第1曲のロ短調の「間奏曲」かもしれない。
開始から詩情と夢想があり、即興的でもあると同時に、入念で確固たる譜面の読み込みから来る格調の高さがあって、素晴らしかった。
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2曲目は、ベートーヴェンのソナタ第32番 ハ短調Op.111
第1楽章は、最後のピアノ・ソナタだからと言って、冒頭から特別な気負いを全面に出すのではなく、譜面の音を丹念に、そして情熱的に奏していく中で、田部さんの個性とベートーヴェンの曲に込めた思いが繋がっていくような、律儀にして揺るぎない構成感のある演奏だった。
第2楽章がとりわけ充実の名演。
静寂さとダイナミズム。場面ごとの曲想に応じたニュアンスの変化とその多彩さ。クライマックスに至るドラマと、その静寂にして気品あるエンディグへの着地。
ライヴ録音(リリース)に値するにとどまらず、控えめに言っても、過去の巨匠たちの名演にも伍する、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタの最良の表現としての見事な演奏だった。
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休憩後の後半は、
シューベルトのソナタ第21番 変ロ長調D960
最晩年にして大作、傑作であり、田部さんと言えばこの曲、と言えるほど、曲と演奏者の強い関係性を感じさせる曲でもある。
第1楽章
田部さん特有の、冒頭にたっぷりとしたテヌートを置いての、しかし、さりげない開始。まるで1分くらいで終わるかのような曲を、即興的に開始したのだが、小節を追うごとに、譜面の中に散りばめられた複数の逸話やドラマを丹念に描く出すことで、喜びや安寧や不安を表現し、清らかさやドラマティックな盛り上げ等により、様々な曲想、シューベルトの感情を描き出して行く。
田部さんがこの曲で示したのは、最晩年の曲というよりも、シューベルトはまだこれからも沢山、傑作を書いていくのだ、という「希望」を根底に置いた演奏だったと感じた。
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第2楽章
短調による哀しみの曲想においては、控えめなペダリングによる低音の丁寧な打鍵と、落ち着いた祈りの表出も素敵だったが、中間部の長調による場面が特に印象的だった。平穏な日常の静かな喜びと未来に繋がる希望。その表出と対比が見事だった。
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第3楽章
シューベルトがまるで、「大丈夫。僕は元気だよ」、とでも言っているかのような、嬉々とした表現がとても魅力的だった。
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第4楽章
さりげなさを基盤においている点で、先日聴いたピリスに似た印象を覚えたが、田部さんは、流麗なフレージングやダイナミズムの強調により、積極果敢に喜びを打ち出している感があった。
音の美しさも含めて、多彩な曲想を弾き分けて描いて行く力量の見事さ。全体としての格調の高さ。
この曲全体、いや、プログラム全体において言えることは、音の粒立ちの密度の濃さと多彩なニュアンス。それにもかかわらず、「ブレ」の無さ。気品と格調の高さ。
あらためて世界的なレベルの、日本を代表するピアニストであることを強く実感できた演奏だった。
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デビュー間もないことからの、ご年配となられた多くの常連集を含めて、客席の9割近くは埋まった会場からの盛大な拍手に応えてのアンコール1曲目は、
シューベルトの即興曲 第3番 変ト長調。
エレガントな長調の部分における魅力だけでなく、短調の場面における感情移入とその起伏が素晴らしく、アンコール・ピースとしての演奏ということを忘れ(超えて)、この1曲を聴けただけでも価値のあるリサイタルだったと言えるほどの充実した演奏。
最高のお手本としての演奏とも言える。
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2曲目(この日、最後の曲)は、この日も(いつもどおり)来場されていた吉松 隆さん編曲による、シューベルトの「アヴェ・マリア」。
この時期に、係る世界の状況の中にあって、田部さんが弾くこの曲の清らかさと熱い祈り、思いのこもった演奏を聴く喜びは格別なものがあった。
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田部京子さんの寄稿文
「今回は、これまでのシューベルト・プラス・シリーズの中で取り上げた作品の中から、最終回に聴いていただきたい特別な3曲でプログラミングしました。「生涯にわたり敬愛したクララ・シューマンに贈られ「灰色の真珠」と評されたブラームス最後のピアノ曲「4つの小品」op.119、革新と共に変遷を遂げたベートーヴェン最後のピアノ・ソナタとなった第32番op.111、そのベートーヴェンを崇拝し、自ら松明を持って葬儀に参列した翌年、後を追うように生涯を終えたシューベルトが死の直前に遺した最後のピアノ・ソナタ第21番D.960。ピアノ音楽の中でも金字塔ともいえるこの3つの晩年作品には、それぞれに人生の濃密な時を経て至った境 地が広がり、孤独、苦悩、焦燥、絶望すら時に超越しているかのような静かな諦観、崇高な祈り、希望、慈愛、そして魂の救いを感じます。遺された傑作に刻まれた楽聖最後のメッセージに耳を澄ませ、皆様にお届けしたいと思います」
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演奏曲
1.ブラームス:4つの小品Op.119
2.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番Op.111
3.シューベルト:ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調D960
アンコール
1.シューベルト:即興曲 第3番 変ト長調Op.90-3 D 899
2.シューベルト:「アヴェ・マリア」(編曲:吉松 隆)
プログラムの前半に、東響コーラスが歌う2曲を置いたコンサートを12月3日午後、ミューザ川崎シンフォニーホールで拝聴した。正式には、ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団の名曲全集第182回演奏会。
指揮は藤岡幸夫さん。全演奏曲は最下段に記載のとおりだが、東響コーラスが出演する前半は、フォーレの「パヴァーヌ」と、同「レクイエム」。
「レクイエム」のソリストは、ソプラノが砂川涼子さん、バリトンが与那城 敬さん。
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フォーレの「パヴァーヌ」(合唱付き)
合唱なしのオリジナルは1887年に完成、翌年に初演されたが、その後、フォーレは、バレエ版を想定して、詩をロベール・ド・モンテスューに依頼した。その合唱付きの初演は、1888年4月28日に行われている。
美しく歌われた合唱だが、団および合唱についての感想は、次の「レクイエム」にて、詳細に書きたい。
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フォーレの「レクイエム」(ラター校訂版)
こんにち一般的に演奏されるのは、1900年に初演されたフル編成版だが、フォーレはそれに先立ち、小編成によるものを1893年に創っている。この日の演奏は、その原曲とも言える版を、更にジョン・ラターが部分的にアレンジした版による(1893年版を基にしたラター校訂版)。
当然、弦はヴィオラ、チェロ、コントラバスを主体としており、ラターの工夫で分かり易かった点としては、第3曲「SANCTUS」で、ヴァイオリンによるオブリガート的旋律を、指揮者の左側に陣取ったヴィオラ群の後ろに座した一人による、ソロだけで演奏された。
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ソリストの立ち位置に関しては、バリトンは、第6曲の「LIBERA ME」だけでなく、第2曲の「OFFERTOIRE」においてもソロがあるためか、指揮者のすぐ右横。
ソプラノは、第4曲の「PIE JESU」だけの出番ということもあってか、左奥(オケの後ろ)。
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合唱はオルガンを背にした2階客席。
コロナ禍でなければ、ステージのオケの直ぐ後ろで歌っても良かったかもしれない。より密度の濃い合唱の響きになっただろうから。もっとも、2階席にゆったりと陣取ったことで、教会の空間のような、響きが広々と伝わる良さもあったので、これは一長一短のことかもしれない。
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ソリストの歌唱について
この曲においても、バリトン歌手の声質や個性によって、曲全体のイメージは随分と違うものになる。
太めの、バスに近いバリトンによるソロが好きな人もいるだろうけれど、私はこのコンサートでの与那城敬さんによるトーンと歌唱にとても魅せられ、大いに気に入った。
太過ぎず、細過ぎず、言わば「ハンサムな声」。格調高い与那城さんのソロは、実に魅力的だった。
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砂川涼子さんが、「PIE JESU」を、どういうトーンで、どう歌われるのか、大いに興味があった。
結果は、繊細な優しさがあり、母性を感じさせる慈愛のある歌声。とても素敵だった。
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東響コーラスについて
アマチュアの混声合唱団だが、東京交響楽団の専属合唱団として1987年に創立され、公演ごとに、その曲を歌うメンバーをオーディションで決める、という、非常に珍しく、シビアな団体だ。
よって、当然、レベルは高く、運営においても、演奏する曲に相応しい人数や4パートの構成比率を調整(確定)できるという大きな利点があり、その点で、アマチュアといっても、いわゆる市民合唱団に類する一般的な団体とは、性格が大きく異なる団体。
この日も、曲的に、あるいは、依然としてコロナ禍の中でもあるということもあってか、多過ぎず、少な過ぎない人数で、4つのパートも、ほぼ同じ人数と思われるバランスの良さによる合唱だった。
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フォーレの「レクイエム」では録音とライヴを含めて、私にとって不満を感じることの多くの原因に、テノールパートの「レガート感の無さとソフト感の欠如」がある。具体的に2か所挙げるなら、
第1曲「REQUIEM」の20小節目からのパートソロ。
第5曲「AGNUS DEI」におけるパートソロ。
しかし、この日の東響コーラスのテナーパートのトーンは、いずれにおいてもソフトで美しかった。
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限りなくプロに近い実力による立派な演奏だったし、ほとんど申し分無いけれど、思う事が全く何も無かった、というわけでもない。優秀な団体だからこそ、敢えて言わせていただくなら、以下のようなことを感じた。
「美しい合唱演奏だが、いささか整然とし過ぎる感じはする。とても真面目で、優等生の集まりの合唱。もちろん、それ自体は素晴らしいことなのだが、欲を言えば、もう少し、個々の自発的な柔軟さ、自在な発露が感じられる歌声が聴きたい。それが加われば、更に素晴らしい合唱になると想像するが、これを求めることは、「学び取り、真面目に演奏することが第一とされる傾向が強い日本の合唱団」ゆえに、この団に限らず、いささかハードルが高いことなのかもしれない。また、今回は、曲的に、もしやソプラノには、童声に近いトーンを求めたのかもしれない(と想像する)が、スラーで繋がった音から、次の音域が含むフレーズに移るときなど、硬さを感じた場面が少なからずあった。それでも、国内屈指の優れた合唱団であることは、疑う余地がない。見事な合唱団だ」。
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なお、自分が活動しているオケの練習開始時間の関係で、後半のプログラムは聴かずに会場を後にした。むろん残念ではあったが、東響コーラスと、お2人のソリストを聴きたくて出向いたので、十分満足した次第。
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プログラム
1.フォーレ:パヴァーヌop.50(合唱付き)
2.フォーレ:レクイエムop.48(1893年版に基づくラター校訂版)
(休憩)
3.ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」
4.ラヴェル:ボレロ
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