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2018年12月15日 (土)

ピアニスト 鐵百合奈さんによる柴田南雄賞受賞論文についての読後感想

雑誌「音楽現代」の12月号に掲載された第5回柴田南雄
音楽評論賞の本賞受賞者である、現役若手ピアニストの
鐵百合奈さんによる受賞論文
「演奏の復権~「分析」から音楽を取り戻す~」は
刺激的な内容で、とても面白く読んだ。

楽理科の学生やいわゆる音楽学者ならともかく、
2017年の第86回日本音楽コンクール第2位、
2013年ローゼンストック国際ピアノコンクール第1位などを
獲得し、来年からは若くしてベートーヴェンのピアノ・ソナタ
に取り組むプロジェクトを開始する現役ピアニストによる
論考だけに、とても興味深く拝読した。
もっとも私が「面白く読んだ」は必ずしも好意的感想だけを
意味しない。
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まず、鐵さんの博学に驚かされる。
鐵さんは修辞学の歴史的展開を、ポンズ、マッテゾン、
キルンベルガーらの論考を紹介しながら進めるだけでなく、
プラトンやガリレオ、ヘーゲルらの哲学者や科学者の
言葉も引用しながら展開するのだが、
私にはこの部分は~賞へ応募としては重要な記述だろうが~
いささか煩わしく、不要にさえ感じた。
ここにまず最初の「違和感」を覚えた。

果たして、係る論考に付いていける音楽ファンが、
どれほどいるのだろうか?と不安で心配になる。
音楽に関する過去の修辞学への論考はいささか青二才の考察
に思えるし、何より、鐵さん自身が
「近代市民社会が成立し、音楽を楽しむ市民が増加し、
 演奏の場や機会が増え、必然的に作曲家と演奏者が
 分離された」
と指摘しているのだから、それでほとんど言い得ている
とも言えるからだ。
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後半の、作品と演奏者による演奏と聴衆の感受に関する、
ナティエ、椎名亮輔、庄野進らの考察に関する検証を経て
から、よくやく、鐵さん自身の整理と主張が出てくる。
この部分の鐵さんの整理は面白いが、1つの演奏に対して
聴き手の感じ方が十人十色、ということは解りきっていること
だし、いわゆる「読み返し」に論点を転じてからの、
「演奏は本質的に常に「読み直し」の性質を持つ」とか、
「「読み直し」こそが、演奏を生き生きさせる秘訣であり、
 作品をどの時代においても新鮮に演奏する鍵なのである」
とする論調も、私にはいささか平凡な論説に思える。
演奏者も毎回「違う演奏」をすることもまた解りきっていること
だからだ。
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むしろ、「副主題は主要主題を注釈していると考えられる」
として、主題と副主題の関係性、連携する「相互注釈関係」
からの説明が新鮮だし、それによって、
「すべての音、フレーズ、楽想が大切なものとなる」ゆえ、
「音楽修辞学、有機体論、情緒論、音楽記号学から、
 それぞれの本質を捉え直すことによって、
 私たちは「分析」から音楽を取り戻すことができるだろう」
と終えたことは興味深い。
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鐵さんの今回の考察は、あるいはいわゆるピリオド奏法、
古楽器奏法に代表されるある種「型」や「歴史」から入る
アプローチに対する疑問や批判的見地の色合いを強く感じるし、
もしそうなら、私も強く同意する者だが、それなら、
その点をもう少し明瞭に述べたほうが解り易いと思う。
もっとも、その場合は、相当数の「敵」を作りかねないから、
現役の、しかも新進気鋭の演奏家としては、
はっきりとは言い難いのかもしれないが。
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そして、最後に意外な文が掲載されていて驚き、ある意味、
納得的な決定打と感じる。それは、この賞の4人の
選考委員の委員長である文芸評論家の三浦雅士氏が、
鐵さんの論文だけでなく、奨励賞の西村紗知さんを含めて
「困惑」として批判的に感想を書いているのだ。

三浦氏によれば、どれだけ学者の見解を引用しようと、
「音楽評論の世界はどうしてこれほど世界が狭いのだろう」
と感じるというのだ。
「鐵さんが「演奏の復権」で述べられてる問題は、畢竟、
 人間は物を作るが思うようにではない、ということに尽きる」
と断じ、
「思いというものは、思想にせよ感情にせよ、むしろ
 作る過程、さらには作ったあとに生じるものであり、
 それは音楽も文学も美術も同じ」とし、そういうことは
「リルケであれヴェルレーヌであれ、誰でも言っていること」
「絶対的な基軸が存在しないというのは人間の常態なのだ」
と手厳しく言う。

最後に三浦氏はこう締めくくる。
「日本の現代音楽の世界は、長い間締め切っていた窓を
 開けなければならないと思う。
 もはや音楽学校の優等生であってはならない」。

この三浦選考委員長の批判的感想こそ、
鐵さんへの最大のプレゼントになるのではないか、
と想像する。
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いみじくも、私が冒頭に、
「楽理科の学生でも音楽学者でもない(のに)」と書いたが、
結果としては私には
「楽理科の学生の生真面目な論説の域を出ない」という、
鐵さんにとっては失礼ながらいささか皮肉な結論的感想を
抱いてしまう。

この賞の趣旨が、「音楽評論を社会に広め、音楽文化の質の
向上に貢献することのできる音楽評論家を育てることを目標
として、将来期待される個人に対し、その活動を顕彰し、
または助成する賞金を授与する」、としているにしている
にしても、むしろ新進気鋭の現役若手ピアニストとして、
日ごろの自身の演奏から感じ取ってきた具体的な心象や
感情等を中心に置いたところから書いたほうが
良かったように思える。

既にファンをだいぶ獲得していて、今後も増えるだろう
ファンが鐵さんに求めるものは、音楽学者的な見地からの
考察より、聴衆からは直接的にはうかがい知れない、
生身の演奏者だからこそ得られる体験からの論考や言及
こそ、ファンはより一層関心をそそられると想像できるからだ。

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