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2018年10月31日 (水)

文豪が聴いたクラシック~by 瀧井敬子さん

10月に入り、日本経済新聞夕刊の水曜日文化欄に、
音楽学者・プロデューサーの瀧井敬子さんが
「文豪が聴いたクラシック」と題して書いているのが
興味深い。

3日は主に森鴎外、10日は夏目漱石について書いている。
漱石の長男、純一氏が後に東京フィルハーモニー交響楽団の
コンマスになったとは知らなかった。

森鴎外は「舞姫」を持ち出すまでもなく、医学の勉強で
ドイツに留学したことは周知のとおり。
ワーグナー没の翌年1884年から1888年。この間、
歌劇場に数十回通ったと言われている。

はっきりとした記録では、1885年6月21日に
ライプチヒ市立歌劇場でグルックの
「オルフェオとエウリディーチェ」を観ている。
そのときの指揮者はアルトゥール・ニキシュ。

鴎外は事前に台本を買い、観劇の際にメモを残している。
オルフェオが妻の死を悲しみ、墓前で嘆き悲しむ場面
では 「緑葉編環、挂之墓前」、
黄泉国に捜しに行きなさいと励ます愛の神(天使)は
「脊生肉翅」、
その衣装には紅の証明 「見穿紅衣、紅光証之」。

瀧井さんは
「目を凝らしながら、懸命にメモをとった鴎外が目に浮かぶ」
としている。

また、東京大学総合図書館の鴎外蔵書にはオペラ台本も
あって、とりわけワーグナーが多いという。
例えば鴎外がドイツで買った「ローエングリン」の台本は2種、
解説書が1冊保管されているという。

夏目漱石にオペラ体験はなかったが、
「ローエングリン」の第一幕への前奏曲は、
1905年10月29日に東京音楽学校(後の東京芸大)の
定演で、寺田寅彦といっしょに聴いた。
指揮はアウグスト・ユンケル。
コンマスは幸田露伴の妹で、音楽分野の国費留学生
第一号の幸田延、そのサイドが第2号の幸田幸。

この前奏曲は、ご承知のとおり、終わり近くまで静謐な曲想が
続くが、終わり近くに盛り上がり、シンバルも響く。
2人はこのシンバルに驚いたというのが面白い。

4年後、欧州に留学した寺田寅彦はベルリン王立劇場
で「ローエングリン」を観てから、漱石に絵葉書を出し、
「ガチャンで(シンバルで驚いた事を思い出して)
 少し可笑しくなりました」、と書いている。


他では、永井荷風が1906年と1907年の2回、
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で「ローエングリン」を
観ているという。

日本では西洋音楽発揚に向けての土台固めはこれから、
という時期における文豪たちのオペラ体験、音楽体験は
興味深い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

瀧井敬子さんの「文豪が聴いたクラシック」の第3回目は
17日に掲載された。
話題はバッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲と、
その日本初演者である幸田姉妹。

まず、オイストラッフ親子による録音に触れた後、
日本初演は、1898年(明治31年)12月4日、
東京音楽学校(現 東京芸大)の奏楽堂における
同校の第1回定期演奏会で、幸田露伴の妹、延と幸の
ソロによるものであったことを紹介。
28歳の延が第1Violin、19歳の幸が第2Violin。

それにしても、こんにちでも好んで演奏される素晴らしい曲
 ~私も昔、第2Violinのソロパートを弾いたことがあります~
の日本初演が20世紀に入る前になされていたことは、
日本の西洋音楽史の中で特筆すべきことだろう。
あらためて幸田姉妹の重要性に思いが行く。

なお、翌年の1899年4月の再演には、当時の皇后陛下が
臨席された。そして1901年も2人のソロで演奏され、
同年6月、幸は国費音楽留学生の第2号としてベルリンに
向けて船出した。

姉の延は、その第1号として1889年4月から
1995年11月までの6年6か月、ドイツ留学して帰国
していた。

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