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2018年10月31日 (水)

前橋汀子さんの「私の履歴書」 連載終了

日本経済新聞朝刊文化欄に長く連載されている「私の履歴書」の
今年10月はヴァイオリニストの前橋汀子さんで、
小澤征爾さん以来、クラシック音楽家による興味深い回の連続
だった。毎回、ワクワクしながら読んだ。

31日、最終回を迎えて終了したので、印象的な部分を
幾つか挙げてみよう。

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  その③と④より

ロシアの貴族出身で、高名なヴァイオリン教師だった
小野アンナさんが小野姓に変わるそのロシア革命時代に結婚
したご主人、動物学者だった小野俊一さんは、
あのオノ・ヨーコさんの伯父とは知らなかった。

掲載された、アンナ先生を囲んだ生徒たちの写真
 ~後列右端が前橋さん、左端が潮田益子さん
  (たぶん2人とも中学生位)~は
とても印象的な良い写真。

それにしても、前橋さんがヴァイオリンを習うきっかけは、
幼稚園児として入った目白の自由学園で、
情操教育の一環として必須だったピアノかヴァイオリンの
どちらかを選択、に際して、
お母さんが子供用のヴァイオリンを買ってきたことだったが、
その理由が、「こっちのほうが安かったから」は面白い。

前橋さんは言う。
「もしこれがピアノだったら、私の人生はどうなっていたの
 だろう。まさに運命の分かれ道だった」。

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  ⑤~⑪にかけて

~厳しさと愛情の系譜~母親、小野アンナ、斎藤秀雄、
  ミハイル・ワイマン~

お母さんの存在が大きい。教育ママとは違ったが、
自身専業主婦ながら料理と裁縫が得意で、
2人の子供=汀子&由子姉妹の服をそれぞれ作ってくれた。

家計の足しにと洋裁の内職をし、汀子さんが練習をしていると、
ミシンの音がしてきたという。
自分も料理や裁縫を習いたいと言うと、
「そんな暇があったら練習しなさい」と言われた。

ここで思い出すのは、樫本大進さんが若いころドイツで勉強中、
うまく弾けずに泣いていると、先生から、
「泣いている暇があったら、練習しろ」と言われたという逸話だ。

汀子さんのお母さんの凄さは言葉だけではない。
小野アンナ先生は、当時の日本で市販されていない
ロシア人作曲家の練習曲をレッスンで使用したため、
当時コピー機などないから、お母さんが写譜していた
という。
それも汀子さんの分だけでなく、自分が先生の指摘を
メモするめ、2セット、というから凄い。
汀子さん思いは半端じゃない。
小野アンナ先生が、
「ここはあと50回弾きなさい。ここは100回」と言うと、
お母さんは自分用の楽譜のその箇所に「50」、「100」と書いた。
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中学に通いながら、桐朋学園「子供のための音楽教室」で
ヴァイオリンを学んでいた汀子さんは、高校進学に際して、
音楽以外にも幅広い勉強がしたいと、
桐朋女子高ではなく、都立高を希望したところ、
斎藤秀雄さんから、
「ヴァイオリンを片手間でやるつもりか。そんな生半可な
 気持ちで勉強してきたのか」と烈火のごとく怒られた。
「うちでは桐朋の授業料は払えないと思います」と抵抗すると、
「では奨学金を出す。それでいいな」とトーサイは答えた
という。こういうところが、
トーサイたる斎藤秀雄さんの半端ない優しさ、
面倒見の良さだろう。

小澤征爾さんや山本直純さんが逃げ出すくらい怖かった
その斎藤秀雄さんは、汀子さんの留学に際して、
「君ねえ、絶対に人と比べたらいけないよ」と言った。
汀子さんはその意味が解らず、内心ムッとしたそうだが、
「後にこの言葉を何度も反芻しながら涙を流すことになる」。

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実際、留学先のレニングラード音楽院での
ミハイル・ワイマン先生のクラスには男女14人の生徒
 ~女子学生は汀子さんと潮田益子さんを含めた6名~
がいて、
「どの学生も信じられないくらい上手に弾く。
 よくこのクラスに入れてもらえたものだ」
と驚くのだった。

母親が送った洋服が届いたと郵便局から連絡があった
ので、「受け取りに行ってきます」とワイマン先生に言うと、
「新しい服を着るのと、1つでも多くの正しいヴィブラートを
 練習するのと、どちらが必要だと思う?」と言ったという。
これなども、先述の、樫本さんの「泣いているヒマがあったら~」
の逸話を連想させる。
汀子さんは母親に
「本当に良い先生です。あらゆる点で驚き、尊敬しています」
と手紙を書いた。

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 シゲティさんの余裕~大きな心の人

日経新聞「私の履歴書」で前橋汀子さんのスイス留学時代での
先生や会った文化人らの面々は本当に興味深く、中でも
彼女が師事したヨーゼフ・シゲティやナタン・ミルシテインは
これまであまり聴いてこなかったので、最近、録音や文献を
確認し始めている。

シゲティに関してはこんな面白い逸話があった。
音楽評論家の横溝亮一さんが、ツテを頼って1964年、
数人でスイスのシゲティ邸を訪ねた際、
大胆にも横溝さんはこんな質問もしたそうだ。
「あなたの演奏は、音はあまりキレイではないと思う。
 ご自身ではどう思ってらっしゃるか」。

するとシゲティは笑ってこう答えたという。
「ハハハッ、君、僕はハイフェッツじゃないんだからね。
 技巧も無いし音も悪いさ。しかし、楽器は音楽を表現する
 ための道具に過ぎない。
 うまく操るのをひけらすのと、中身の音楽で感動するのと、
 どちらがいいと思う?自明の理だろう?」

凄い話だ。
こんな失礼な質問を本人に向かってするほうもするほうだが、
普通なら「出ていけ! 帰れ!」と激怒してもおかしくないのに、
苦笑して、しかも横溝氏の言及を肯定しつつ切り返すとは。
 「大きな人間だ」と思う。

技術、音楽性に加えて、来日時の人柄の良さでも話題となった
ヴァイオリニストにダヴィッド・オイストラッフがいるし、戦後、
米軍からナチ疑惑を厳しく追及されたフルトヴェングラーを
公然と積極的に擁護したユダヤ人ヴァイオリニストの
ユーディ・メニューインのヒューマニティも広く知られているが、
もう1人、このシゲティさんの心の大きさ、
なるほど技巧はこんにち的には超絶ではなかったにせよ、
音楽の内面を深く追及した個性的なヴァイオリイストという
だけでなく、泰然とした大人物としてのヨーゼフ・シゲティの
人間性を、教養ある豊かな文化人たるヴァイオリニスト、
音楽家の中に加えなければならないだろう。

なお、このやりとりのとき、横溝さんの同行者の中には
若き海野義雄氏がいたそうで、さぞ「ハラハラ」したこと
だろう。
評論家だから問えたことで(それでも大胆過ぎるが)、
新進気鋭の若き後輩同業者にはとてもじゃないけど言えない事
だっただろうから。

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また、このやりとりに続けて、シゲティさんはこうも語った
という。
「うまく弾くのが音楽じゃない。深く思索して、
 その音楽の魂を弾きずり出すのだ。
 音楽はヨーロッパの哲学なんだよ。
 日本では、ベートーヴェンがどんな思想の持ち主だったか、
 それが彼の音楽にどう反映されているか、
 そういうことを勉強していますか?」

日本における音楽教育における在り方さえ問い、
核心さえ突いていたのだ、と言えるのではないか。

もちろん当時の「欧米に追い付け」として、まずは
技術追及ありきの日本の風土はやむを得なかったにせよ、
その事が、こんにちの日本の音楽教育において
本当に良い結果だけをもたらせてきているのかは別問題
だと想像する。

いずれにしても、係る逸話を知ったからには、
シゲティさんにはこれまで以上に強い関心を持たないわけには
いかなくなった。

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 最終回より

10月31日の最終回の冒頭にはこうある。
「私鉄沿線の改札口で人を待っていたある日の夕方、
 電車から吐き出されてくる人の波を見てふと思った
 ことがある。
   「この中にクラシックのコンサートに足を運んだ人は
    何人いるのだろう」。
 一人でも多くの方に生の演奏を聴いてほしい。
 休日の午後、低料金で聴いていただく
 「アフタヌーン・コンサート」を2005年から始めた背景には
 そんな思いがあった」。

   (中略)

「こうしたコンサートに加え、前回紹介したベートーヴェンの
 弦楽四重奏曲を弾く「前橋汀子カルテット」が
 現在の活動の柱になっている」。

幼いころから彼女と親しかった潮田益子さんも中村紘子さんも
もうこの世にいない。
彼女の妹で優れたピアニスト(汀子さんの伴奏者)だった
由子さんもいない。
汀子さんは次のような言葉で「私の履歴書」を終えた。

「今は心身ともに充実しているが、自分に残された時間には
 限りがある。これが最後になるかもしれないとの思いで
 1回1回のステージに全力を尽くし、
 1日でも長くソリストとして現役を続けていきたい」


私は前橋さんのCDはバッハの無伴奏ほか、
幾つか持っているが、久しく聴いていない。
録音だけでなく、なるべく近いうちにライブも聴いてみようと思う。

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