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2018年6月27日 (水)

清水華澄さん初リサイタル

今や押しも押されぬ売れっ子メゾソプラノ歌手
清水華澄さんの初リサイタルを26日夜、
紀尾井ホールで聴いた。
意欲的でユニークなプログラムによる果敢な初リサイタル
だった。初というのも意外だし、初めてなら、
もしや慎重に保守的な選曲することもあり得なくはないだろう
ところを、そうしなかったことにまず敬意を表したい。

私が初めて清水さんを聴いたのは「3.11」の約1か月前、
よって一部崩落する前のミューザ川崎での、
冨平恭平さん指揮オーケストラハモンによるマーラーの
交響曲第3番だった。第4、第5楽章の歌唱が素晴らしく、
「この人、絶対有名になるな」と直感した。
それからほどなく、皆さんご承知のとおりとなった。

ソプラノに比べてメゾは少ないからその分貴重、などと
いうような次元ではなく、活躍するべくして活躍されている歌手。
初リサイタルに際して、白黒のシンプルながら、
複数の写真を入れた印象的なプログラムに、
華澄さん自身がこう寄稿されている。

「新しい一歩であり、スタートでもある私の挑戦。
 一心不乱に前だけを見て走り続けた20代、30代。
 しかし30代の最後に突然「なぜ自分は歌っているのか」を
 考え始め、今までやって来なかったことの中に答えが
 あるかもしれないと思い、リサイタルへ挑戦することを
 決めました」。

ピアノに越知晴子さん、
サクスフォンの鈴木広志さん(終曲の「臨死船」のみ)を
迎えての演目は以下のとおり。

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1.アルマ・マーラー「5つの歌」
 (1)静かな町
 (2)父の庭
 (3)なま暖かい夏の夜
 (4)お前の元では打ち解けられる
 (5)僕は花のもとをさまよう

2.グスタフ・マーラー「さすらう若人の歌」
 (1)愛しい人がお嫁に行く日は
 (2)今朝ぼくは野原を歩んだ
 (3)僕は燃える剣を持っている
 (4)愛しいあの子のつぶらな瞳が)

 (休憩)

3.ストラビンスキー「「エディプス王」より
   ヨカスタが歌う「恥と思わぬか、王子たち」

4.ベルリオーズ「ファウストの劫罰」より
   マルグリートが歌う「激しい愛の炎が」

5.作曲=根本卓也 詩=谷川俊太郎 「臨死船」

アンコール
1.武満徹「うたうだけ」
2.マスカーニ「カヴァレリアルスティカーナ」より
   「ママも知るとおり」

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1曲目。
華澄さんの声は一般的なメゾのイメージより明るく
伸びやかなトーン。この曲では瑞々しい清らかさがあった。

2曲目も丁寧に曲想を歌い分け、若い心情に寄り添う
立派な歌唱だったが、失恋の歌なので、もっと激する
ところがあってもよかったかもしれない。
マーラー特有のある種の「毒」、やるせないまでの感情の
移ろいがあってもよかったかもしれない。

今回は初リサイタルということで、
大胆なプログラムではあっても個々の歌では丁寧に仕上げる
という点に注力されたのは当然のことだ。
今回が「初」でなかったら、
この曲ではもっと「踏み込んだ」表現をされたかもしれない。

なお、彼女自身、前述のプログラムへの寄稿の中では
こう書いている。

「これから歌っていきたいグスタフ・マーラーと彼の妻
 アルマの歌曲から5曲。マーラーの作品は演奏する度に、
 私の声が喜ぶ作曲家」

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休憩後ドレスを着替えた後半こそ彼女の真骨頂と言え、
最初のストラビンスキーではオペラ的、劇的な表現力を
余すところなく表現して素晴らしかった。
プログラムにはこう書かれている。

「学生時代、エディプス王の映像を観て、ヨカスタを歌う
 ジェシー・ノーマンと彼女の立つ舞台に憧れた。
 それから20年が経ち、ヨカスタを歌える時が来つつある
 と感じています」。

十分に「歌えるときが来た」と言えるだろう。

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次のファウストからの曲では、品の良さと後半の声量が
素敵だった。プログラムにはこう書かれている。

「マルグリートは全幕を日本語で歌唱したことがあります。
 いつかフランス語で、そしてスーザン・グラハムのように
 歌いたい!と思い続けて10年。
 まだまだ道半ばですが、私のマルグリートをお届けします」。

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最後の曲は指揮者で作曲家の根本卓也さんが、
谷川俊太郎さんの長い詩に作曲した、語りと歌をほぼ交互に
交えながら作曲作品で、華澄さんの語りが聞けて
面白かったが、歌の部分に比べると語りでの声量が
やや控えめであったこと、
作品自体に大きな抑揚的(転調的)変化が少なく、その分、
私にはやや平坦な作品との印象を受けた。

なお、初演はバリトン、チェンバロ、サックスでなされたという。
この日のサクスフォンは初演でも演奏した鈴木広志さんが
務めた。
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アンコールに際しては小話で客席を笑わせた後、
武満の「うたうだけ」を楽しげに、「ママも知るとおり」を可憐にして
情感たっぷりに歌い、大いに客席を沸かせて終えた。

人気のある人で、2曲目以降アンコールに至るまで、
大きな拍手と歓声が場内に溢れていた。
彼女の友人や共演や指導されている合唱団等が多かった
であろう客層は、彼女の実力はもちろん、
彼女の温かく誰とでも気さくに応じる飾らない人柄の
なせる業でもある。

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最後に受付や終演後の写真撮影も含めて華澄さんを
献身的にサポートした名ソプラノ歌手の藤谷佳奈枝さんに
御礼を込めたい。

2018年6月23日 (土)

田部京子さんのシューマン

22日、今や田部京子さんのホームラウンドとも言える
浜離宮朝日ホールでリサイタルを聴いた。
シリーズとしては「シューベルト・プラス第4回」と題するもの。
プログラムは、シューベルトの4つの即興曲D935 Op.142、
休憩後はメンデルスゾーン
「夏の名残のばら」による幻想曲(ホ長調Op.15)、
シューマン「謝肉祭」Op.9の3曲で、
田部さんにしては一見軽めのプログラムの印象を受けなくも
ないが、内容的にはそんなことはない。

前半のシューベルトは1曲ごとの性格(曲想)がまるで違ううえ、
全体を見据えて挑む場合、個々の曲の特徴を掴んで表現する
ことに加えて、全体の流れも当然重要になる。
そうした構成感への配慮と、1曲ごとの弾き分けにおいて
田部さんは天下一品だ。
羽毛のような柔らかさを曲ごとに色合いや縫い目の変化を
付けながらダイナムズのバランスにも配慮した細やかな演奏が
素敵だった。

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休憩後のメンデルスゾーンは18歳のころの作品といわれる曲。
アイルランドの詩人トーマス・ムーアのテクストによる
「夏の名残りのバラ」を用いたアイルランド民謡で、
日本では「庭の千草」として知られる。そのテーマが多少の彩りを
含めて爽やかに歌い出されたが、
次には一転して複雑でリズミックンな速いパッセージに変わり、
そうした巧みな弾き分けの変化の見事な妙。

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最後はシューベルトとともに田部さんが
特に得意とするシューマン。
有名な曲だし、もちろん田部さんもこれまで何度も弾いて
こられた曲。
田部さんの特徴は1音1音の粒の密度の深さにあると思う。
1音1音への誠実さ、と言い換えてもよいような生きた音が
連続する。

強靭な技術を基盤とした音には常に「コク」が在るが、
それは重いとか軽いではなく、熟成した果実のような濃厚な音
であり、それがムラなく持続して行く。

細部は全て丁寧に「練られる」が、それは合理的理知的な計算に
基づくというより、繊細でしなやかな感性で縫いあげて行く工程
を想像させるものであり、その結果、上質な絹織物だったり、
温かな毛織物のぬくもりのような温かさ、
気品を常に感じさせてくれる。
どっしりと全体を見据えた構成感が在る。

田部さんは次の(新しい)フレーズに移るときに決して先を
急がない。常に足元を見据え、大地に根ざして行くが如く、
歩んで行く。
「たたみ込む所」でも駆け出さず、常に一定の厚みと
熱さを内在したベクトルとして直進する。
その安定した音の粒立ちゆえ、技巧的な部分でも決して
仰々しくならないし、静謐な部分でも不透明にもならず、
常に明晰で格調高い音楽となる。

それも理知が先行するのではなく、
まず感情、情感があって、それをいかに表現するかという
考察が常に在る。そのバランスの素晴らしさ。
理知と情感の絶妙な配分と交差。

田部さんは、シューベルトにおいては、瑞々しさ清々しさを
増加することで、古典的フォルムの堅持よりもロマン派の
息吹を節度を保ちながらも喜々として歌うことに踏み込むが、
それはシューマンにおいて決定的となり、
シューマンにおけるヴィルトゥジティと同時に熱いロマンと
パッションがほとばしる演奏に圧倒され、
深い感銘を受ける。

田部さんの情感が直接的に音のドラマとして立体的に
歌われるシューマンは素晴らしい。
もしかしたら、田部さんが一番自分自身をさらけだして、
パッションの赴くままに弾くのはシューマンかもしれない。

そうであっても、
デモーニッシュの中でも常に自分のバランス感覚と
1音1音への誠実なタッチを忘れることがないまま、
いわば、誰よりも「大人な音楽」を醸し出して行く。
温かさと代え難いまでの気品が常に在るのだ。
この日の「謝肉祭」も正にこうした特色が溢れた名演だった。

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アンコールは、交響的練習曲遺作第5番と「トロイメライ」。
前者での深みのある真摯な充実感。
後者ではやや速めのテンポで爽やかさを内在した
ロマン的アプローチで素敵だった。
田部さんの演奏会は、いつも聴き手を幸せな気持ちにしてくれる。

自民党穴見議員がガン患者にヤジ~辞職しろ

自民党の「魔の3回生」穴見陽一衆議院議員が、
あろうことか、受動喫煙対策の法案審議で参考人として
出席した肺がん患者に対して、
「いい加減にしろ」とヤジ。

議員以前に人間性の問題。
「お前こそ、いい加減に国会を去れ!」
というところだろう。

この議員はファミレス経営者(議員は片手間か?)ゆえ、
禁煙に反対なんでしょうど、外食産業だって禁煙が
トレンドだということも理解していないようだ。

https://www.youtube.com/watch?v=T1eXp0SbyRs

2018年6月20日 (水)

映画 空飛ぶタイヤ

真面目な仕事人たちの小さな会社が、不正を隠ぺいするだけで対策を講じない、コンプライアンスのかけらも無い大会社と対峙する。

巨大組織の冷徹さがよく描かれているし、内部告発に至る人間の心理等についてもよく掘り下げられている。
問題ある大企業の内部にも、かつて屈辱を受けた小さな企業の中等々、いろいろな所には個人としては微力であっても正義感を持っている人はいて、そうした一人ひとりの不正に対する怒りが結果、力となって不正を暴いてく。

長瀬智也、ディーン・フジオカ、高橋一生という3人のイケメンと、彼らの同僚など周辺にいる人々の思いがそれぞれの立場で関わり交錯する、見応えある社会派ドラマ。
長瀬の奥さん役の深キョンも相変わらず可愛らしい。

昨今のプログラム(パンフ)は手抜きのものが多いが、この映画のそれは豪華でしっかりとしたもので、その点でも好感が持てた。

2018年6月18日 (月)

映画 羊と鋼の森

「ピアノの音は世界とつながっている」。
山﨑賢人演じる主人公が調律師になりたいと家族に伝える
シーンで言うセリフだ。
「1つの音に世界を聴く」と言ったのは武満徹だった。
映画開始まもなく、2人の姉妹~演じるは本当の姉妹でもある
上白石萌音と上白石萌歌~が、調律師なりたての山﨑に
それそれ違う響きの音を要求する。
早い段階から核心に入り込む、いわばレベルの高い論点に
入る。

昔、小澤征爾さんが武満さんとの対話で、
「ここに1台のピアノがあるとする。これを、ポリーニ、
 高橋悠治、ピーター・ゼルキンの3人が弾いたら、
 3人3様まったく違う音が出る」と言うと、
武満さんは、「その違いたるや、恐ろしいくらい」と応えている。

奏者一人ひとりが求める音、好む音、響きは異なるし、
同じ奏者でも演奏する曲やホール等、様々な要因要素の
中でも異なる。
何よりもまず、演奏者の手や腕や体全体という肉体的状況が
異なるし、感性も嗜好、思考も異なる。

聴衆においても好みは異なるが、鈴木亮平演じる山﨑の
先輩調律師が卵の茹で加減に例えて、
「その好みは、他に色々な味を知っていて、その場では
 その柔らかさ=音を好むということもあれば、
 その柔らかさしか知らないからそれを好むのか
  (など色々考えられる)」
という発言は奥が深く、示唆的だ。

演奏者が聴き手に音を届けるということ。
調律師もそのために全力でそれに尽くすということ。
1つの部屋に家族の物語があり、ホールに来る聴衆一人ひとりも
物語を抱えて音楽を聴く。

調律師は家の部屋であっても、雑音の混じる宴会場
であっても、静寂なホールであっても、
いかなる状況であっても人に届け得る音を作る、
そういう音を生み出すピアノに仕上げる。

劇中、森の木立のざわめき揺れる美しいシーンがたびたび
写される。木々の葉の揺れは人間の揺れ動く感情と重なり、
揺さぶる風は届き行く歌の流れでもある。
歌の木霊に揺れる緑豊かな美しい自然。
それは主人公の静かなしかし力強い思いと呼応した、
ピアノを通して歌い届けられる奏者とその楽器の基を作る
調律師の願いでもある。

思い悩む山﨑に対して先輩鈴木はこうも言う。
「才能というのは、ものすごく好きだ、という気持ちでは
 ないか」と。

宮下奈都原作のこの映画では、原民喜の詩が
三浦友和演じるベテラン調律師によって紹介される。

 「明るく静かに澄んで懐かしい文体、
  少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを
  湛えている文体、
  夢のように美しいが、現実のようにたしかな文体」

作家が自分の文体を練り上げるように、音楽家は
どういう音を目指すか自問しつつ自分の音を磨き上げる。

ピアノを弾いている(いた)人なら、調律師がいかに重要かは
日常的な実際の場で知っているが、
ピアノに縁がなかった人も含めて、ピアノにとって、
演奏者にとって調律師がいかに重要な存在かを
この映画があらためて強く教えてくれる。

ピアノが好きな人やクラシック全般が好きな人はむろん、
ジャズが好きな人にもロックが好きな人にも、
いや音楽自体に特に興味がない人にも、
この映画を観て欲しい。

音楽が好きになるかどうかは判らないが、
羊のハンマーを内在した鋼(はがね)のピアノが、
単なる物体ではなく、人間の五感や体と密接に結びついている
という関係性に興味を持つかもしれない。

仕事や趣味嗜好の違いを超えて、個々の人間の持つ
感性とインスピレーションとが、自然や音楽や日常の中での
他者との関係において結びつき、交錯している様に
思い巡らせ、この作品を楽しむことができると思う。

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追記

再び観た映画「羊と鋼の森」
封切り間もなく観て、こちらにも感想をアップさせていただいたが、先日、もう一度劇場で「羊と鋼の森」観た。
やはり良い映画だ。
上白石萌音が演じる姉妹の姉がピアニストを目指す決意を告白し、妹が喜ぶと同時に大変さに言及すると、「ピアノで食べていこうとは思わない。ピアノを食べて生きていく」と応じるセリフは、鈴木亮平演じる先輩調律師が言う「「才能というのは、凄く好き、ということではないだろうか。何があっても継続する執念。どんなことがあっても続ける気持」に呼応する。

前半では「子犬のワルツ」をめぐる両親を亡くした少年の逸話で、個人それぞれに大切なピアノにまつわるドラマがあること描き伝える。

後半ではプロピアニストのコンサートに備えての三浦友和演じるベテラン調律師がピアノの足の輪の向きを変えることで響きを変えるプロ技を見せてくれる。

結婚式披露宴(パーティー)会場での山﨑賢人演じる主役若手調律師が言う。「どんな天井の高さ、部屋の大きさ、前と後ろの人の位置(距離)、どれだけの人が入る場所か、会場か。どんな状況でもその時の最上の音を御届ける」。
そのために調律師はピアノを最上の状態に仕上げていく。

これは他の楽器も声楽もいえることでもある。
事前に備える基礎的な準備にして、最初の最大のクリアすべき絶対条件としてのベストコンディション作り。

奏者はステージで遊んでいるのではない。都度が真剣勝負だ。技術と肉体的コンディションがあり、次いでそれ以外でまず重要なものはピアノという楽器の状態。
次いでコンサートホール等、会場の状況、状態。

ときおり奏者の衣装のことをとやかく言う人がいるが、そんなものは2の次3の次それ以下だ。奏者が一番弾きやすい恰好で演奏すればよい。もし裸が最高コンディションならそれでもよいが、家ではともかく、さすがに人前ではムリだから、各人が工夫するだけのこと。

アリス=紗良・オットは裸足で弾く。きっとペダリング的にそれが彼女に一番フィットするのだろう。
それをもし、「客の前で裸足で弾くとは何事か」と批判する人がいるとしたら、ピアノと奏者との関係性やコンディション、あるいはペダリングのことを知らない人のセリフだ。

奏者は多くの面で最高の状態で、そのとき望み得る最高の演奏しようとする。そしてそのとき、そこにおいてピアノという楽器のコンディションを最高に保とうとする仕事が調律師だ。
調律師がいかに大切な存在かを知らない人は未だピアノと奏者とそこから紡ぎだされる音楽の何たるかを知らない人と言えるかもしれない。
それほど調律師の仕事は重要である、ということを教えてくれる映画だ。
https://www.youtube.com/watch?v=g1O7i4jNJ6c

映画 万引き家族

「万引き家族」を2日午後、観た。一般公開日は6月8日だが、
東京や神奈川など24の劇場限定で2日と3日、先行上映
されていた。
話題の映画ゆえ、私が観た新宿バルト9の15時10分開演
の枠はほぼ満席。ギリギリで席を確保できた。

劇の3分の2、90分はほどんど何も起きないが、
残りの30分で一気に物語が激変する。
きっかけはある「優しさ」だ。

「誰も知らない」、「そして父になる」、「海街diary」、
そして今回の作品全てで共通する是枝作品のテーマは「家族」だ。

時として必ずしも血がつながってはいない場合も含めての
親子問題。「親子とは何か?」。「家族とは何か?」。

愛されず阻害され拒絶されてきた子供や大人たちが集まり
一緒に暮らすことで生じる絆。
それは通常の家族とは違う関係性のものかもしれないが、
しかし、思いやることの真実はそんな中にも存在する。

役者の皆さん、子役を含めて全て素晴らしいが、
とりわけ安藤サクラさんには出演作で毎回感心してきたが、
この作品でも間違いなく中心にいるのが彼女だ。

松岡茉優さんはこれまであまり色気を感じない女優さん
だったが、この作品では意外な役を、しかも心根としては
とてもピュアな女性として魅力的に演じていたのも印象的だ。

音楽はほとんど使われていない。ごくたまに短い音、
音響程度のものが入る程度だが印象的だ。

必ずしも希望を描いているわけではない。
ラストシーンの幼子の眼差しの先に何があるのか、
彼女自身だけでなく、観る私たち観客の誰にもわからない。
このエンディングは一見さりげないようでいて強く胸を打つ。

2018年6月12日 (火)

米朝首脳会談

これまでの2人の発言記録が面白い(下記URL)。
それでも互いに会うことを望み、実際に会ったということが重要。
拉致問題解決のためには、安倍首相も金正恩に会うことが絶対必要条件。
http://www.asahi.com/special/trump-kim/?ref=yahoo

2018年6月 9日 (土)

やっとかめ室内管弦楽団 第5回演奏会

9日午後に聴いた、やっとかめ室内管弦楽団という面白い団名オケの演奏を聴くのは2回目。
指揮は私が以前聴いた第3回のときと同じ沖澤のどかさん。
3日に神奈川県民ホールで「ヘンゼルとグレーテル」を振ったばかりだ。
会場は第3回のときと同じ武蔵小金井駅前の小金井宮路楽器ホール。

第3回のときの感想で書いたとおり、「やっとかめ」というのは名古屋弁で「久しぶり」という意味とのことで、名古屋で学生オケを経験し、今は東京周辺に在住する老若男女が集まって結成され、毎年1回の演奏会を開催して今回が5回目。

曲はウェーバーの「魔弾の射手」序曲、
ドヴォルザークのチェロ協奏曲と交響曲第6番の3曲。

・・・・・・・・・・・・・・
以前も書いたが、とても優秀なオケで、特に弦が素晴らしい。
チェロパートなど、ピッツィカートも含めて音量もアンサンブルの精度としての音程も申し分ない。なかなか聴けないレベル。
ヴァイオリン群も一糸乱れず鋭角的に響くが決して硬いわけではなく、いわば凛としたシャープさとでも言おうか。
沖澤のどかさんは一曲目をロマンティックな曲想というより、シャープで古典的な造形に力点を置いた演奏と感じた。
特に見事だったのが、終わり近く、ハ短調での静かな余韻でのチェロとコントラバスによる2つのGのピッツィカートのあと、ハ長調コードの強奏で初めてエンドに向かうコーダの流れ。合奏力の高さを示した。

・・・・・・・・・・・・・・
2曲目が名曲中の名曲であるドヴォルザークチェロ協奏曲。
ソリストの山本裕康さんは神奈川フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者で、2年ほど前からは私が活動する学習院OB管弦楽団のトレーナーの一人として、いつもとても有意義な指導をしていただいてる。

先生のソロ演奏を聴かせていただいたのは初めてで、そうした個人的な関係抜きにして、とても抒情的な、懐の深い演奏に感動した。全楽章とも総じてゆったりと余裕のあるテンポ。決して力まず、あくまでも各場面でのフレージングの深い意味合いを元に演奏していくことで、美しい音楽的展開がなされていく、という、いわば大人の表現。
もちろんアッチェランドを含めて、たたみ込むところを有機的に織り込みながら進めてく。
オケはそれに立派に応えていたのは沖澤さんの指導力とバトン力によるものだが、こうした協奏曲ならではの難しい部分を、ソリスト、指揮者、オケの3者が入念に確認とリハが積まれたであろうことは容易に見てとれた。
それだけの完成度があった。

第3楽章のソロ冒頭は思いのほか淡々と、ある意味ロココ調に弾き始めたのが意外で、これこそ最も望ましい意味での「脱力」の最たる演奏。
終演後、楽屋付近で沖澤さんと話したときも、彼女も「あの曲をあそこまで力まずに弾いていくことに驚き。とても勉強になりました」と語っていたが、あの部分など最たるものだろう。
もちろん、粘るところは大きく粘り保たれる。曲のソロとしての最後のHの音に上がっていく手前のFisの音の長い長い伸ばしと、上がったHでの何度もボーイングを返してのエスプレッシーヴォの音の弾き切る等々、とにかく見事な演奏だった。

アンコールではバッハの無伴奏チェロ組曲第1番から「サラバンド」を思索的で瞑想的に弾かれ、会場一杯にバッハの深淵な世界が広がった。

・・・・・・・・・・
休憩後のドヴォルザークの6番。私は今までほとんど聴かないで来たし、8番と9番の完成度にはほど遠く、7番の個性的構成という点でも、まだまだ「若い作品」と言えるだろう。ニ長調という調性もあり、総じて明るく祝典的な曲想。
それでも第3楽章のスケルツォは魅力的な楽章だし、第4楽章の決然とした運びも爽快、豪快で、コーダに入っていく部分ではベートーヴァンの序曲レオノーレ3番のコーダの入り、あの弦が次第に増して行き、強和音に入る運びを連想するなど、興味深い作品だった。
この終楽章は面白い。
演奏も特にその第3楽章と第4楽章が集中力が一層あって見事だったと思う。

大きな拍手と歓声の応えてのアンコールは有名なホ短調のスラブ舞曲作品72-2。抒情的で、各楽器のバランスもよくとれた素敵な演奏だった。

なお、沖澤のどかさんとは、私が武蔵野合唱団で一時期歌わせていただいたときに面識を得、それ以来のご縁。私が応援している指揮者の1人。

2018年6月 8日 (金)

子供たちの未来は大人の責任

船戸結愛ちゃんの虐待死に私を含めて多くの人があの両親に憤っている。
これまでにも、どうして親からイジメられるのか理解できぬまま亡くなっていった幼子が国内だけでもたくさんいる。
それに対して私たち社会が関心が低いままいた。

本日より公開される映画「万引き家族」を2日に先行上映で観たが、あの作品の中にも、結愛ちゃんほどでないにしても親から虐待されている少女が登場する。
ネタバレで言えば、ラストシーンはその少女のシーンで終わる。彼女が見つめる先に希望があるのかどうかは全く判らない。
あの少女の未来を是枝監督は我々に突き付け問いかけて終わる。
明るい未来であって欲しいと誰もが思うが、それは誰にも判らない。

結愛ちゃんは香川県に住んでいたとき、2回も児童相談所に保護されたという。しかしその都度、父親は不起訴処分となっている。そして都内に転居後、虐待の度合いは増したようだ。
香川県から引き継いだ品川児童相談所が出向いたが、結愛ちゃんに会わせてもらえないまま、その中での死亡事件となってしまった。

児童相談所だけでは限界があるだろうから、司法を含めて、もっと強権的な対応で保護下に置くなどにより、社会は子供たちを守らねばならないだろう。
第二第三の結愛ちゃんを出さないために。

2018年6月 3日 (日)

オープンシアター~ヘンゼルとグレーテル

神奈川県民ホールがリニューアル記念としての主催「みんなでたのしむオペラ~ヘンゼルとグレーテル」を3日午後、同ホールで観た。
謳い文句を「すべての子どもたち 大人たちに贈る」「芸術に出会い 劇場を体験する」としているように、親子連れ歓迎を主体とした上演で、もちろん大人単独もOK。
演目はフンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」。
指揮は急な代演とのことで沖澤のどかさん(当初の予定は現田茂夫氏)。
オケは神奈川フィルハーモニ管弦楽団。
担当コンミスが伊藤文乃さん。
歌手陣がヘンゼルに青木エマさん、グレーテルに鵜木絵里さん、パパ役に宮本益光さん、ママ役兼お菓子の魔女役に岡本知高(ともたか)さんという素敵なラインナップ。
そして地元の赤い靴ジュニアコーラスと赤い靴スタジオの皆さん。

約70分に要約しての上演(休憩なし)だが、午前11時開演と午後2時開演の2公演なので出演者は大変だっただろうと思う。私が観賞、拝聴したのは前述のとおり午後の公演。

4歳児以上入場可なので、セリフや歌詞はもちろん日本語で、バリトンの宮本益光さんによるその歌詞をステージ上部に日本語と英語のスクリーンで掲示した。

・・・・・・・・・・・・・・
青木エマさんと面識があるだけでなく、武蔵野合唱団で歌わせていただいた時期にご指導いただいた沖澤のどかさんの急な出演とあって、たぶん神奈川フィルを振るのは初めてだろうし、昨年ベルリンドイツオペラで新作オペラを振ったが日本での巨大なホールでのオペラ指揮は初めてだろうと想像し、これは行かねばと楽しみに神奈川県民ホール大ホールに向かった。
・・・・・・・・・・・・
午後2時になっても親子連れがまだ入場してくるというノンビリとした状況もたまには悪くない。10歳以下と想われるお子さんを連れた親子が8割か9割を占める大ホールは7割近くは埋まったかもしれない。約2433人のホールの1階は1509席の7割だし、午前公演もあってのそれだから、大盛況と言ってよいだろう。雰囲気的にも賑やかなお祭り的雰囲気だった。
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歌手では岡本さんの風格と声量もさすがだが、贔屓目抜きに青木エマさんの声の通りが素晴らしく、想像以上の声量を確認できた。宮本さんは最近あまり感心しない公演もあった気がするがこの日は絶好調で充実していた。鵜木さんは相変わらずの可憐さでチャーミング。
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今回驚いたのは田尾下哲さんによる演出で、広いステージを生かした美しくユーモラスな、手抜きの一切ないセットや場面転換。何より稲葉直人氏による照明が美しく、ここまで照明は効果を上げた公演は私は数えるくらいしか知らない。あまり思い当たらないほどの多彩で美しい照明で見事だった。
当初から親子(連れ)向けの上演ということが判っていたので、開演するまで係る演出を含めた全体のクォリティを少し心配していたが、どうしてどうして、これは仮に大人オンリー対象の公演であったとしても十分鑑賞にたる立派な公演だった。
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そしてこれまた何よりも、このオペラが入門的にも、親子連れで楽しむオペラとしても、これ以上ないほど最適な作品であることをあらためて強く実感した。しかも、単に長和音進行がメインで聴きやすい(俗に言う解り易い)作品であるだけではなく、オーケストレーションにおける臨時音や転調、強弱、楽器の使用における巧みさ等々、作曲技法においても極めてクォリティの高い見事な作品、第一級のオペラの1つであると強く実感した。素晴らしい作品だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後に、沖澤さんの指揮も、これまた贔屓目抜きの堂々としたもので、彼女を初めて知った5年ほど前に比べて大きく成長していることが確認できて嬉しかった。ルーマニア国際指揮者コンクール3位。ベルリンのハンス・アイスラー音楽院で現在も研鑽中だけのことはある。これからが益々楽しみだ。
終演後、青木エマさんは見つけられなかったが、沖澤さんとは楽屋に出向いてご挨拶後、帰途についた。

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