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2017年11月28日 (火)

赤ちゃん帯同で議会に出た熊本市議について考える~両者にルール不在~それよりも設備対応を

赤ちゃん帯同で議会に出た熊本市議について考える~両者にルール不在~それよりも設備対応を
「女たちはルールを無視して横紙破りをやるほかに、自分の言い分を通すことができなかった」~アグネス論争(注)時の上野千鶴子「働く女が失ってきたもの」より~

 11月22日の熊本市議会に、赤ちゃんを帯同して議場入りした女性市議の行動が波紋を呼んだ。緒方夕佳(ゆうか)市議(42歳)が生後7ヶ月の長男を抱いて、本会議が始まる午前10時前に議場の自席に着席。市議会は「議員や職員以外は傍聴人とみなす」として、傍聴規則で「傍聴人は会議中に議場に入ることができない」と定めているため、澤田昌作議長が退場を促したが、緒方市議が聞き入れなかったため別室で協議。長男を友人に預けることで合意したため予定より40分遅れて開会した。市議会は、緒方市議が事前に通告なくルール違反を強行し「議会のルールに抵触し混乱を招いた」として厳重注意処分とした。 なお、緒方市議は長男を出産した4月以降、「出産後の体調不良」を理由に議会を欠席しており、本会議出席は約8ヶ月ぶりだった。妊娠が判明した昨年から、乳児を連れての本会議出席や市議会への託児所設置を議会事務局に訴えてきたが、前向きな回答を得ることができなかったため、「子育て中の女性も活躍できる市議会であってほしかった」という思いから子連れでの入場に踏み切ったという。

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「常識」としてはマズイだろう。しかし、問題は「傍聴人規則」で、「傍聴人はいかなる事由があっても議場に入ることはできない」という部分があるだけで、「会議規則」には該当(禁止)ルールが無いということだ。赤ちゃんを「傍聴人ルール」に当てはめたのはムリがある。とはいえ、さすがに市議会はまさか赤ちゃん帯同の議員の登場までは想定していなかった事はやむを得ない。
 赤ちゃんを「傍聴人」とすることはいくら何でもムリがあるが、かといって、赤ちゃん議場帯同を正当化するルールもない。要するにこの件は、「いずれの側にも、自分の主張を押し通すことができる根拠ルールが不在の状況」なのだ。
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 ちなみに、国会でも「慣例として議員本人にしか議場に入れないとしているだけで、特段の決まりや法規はない。あきまでも「しきたり」だという。(これまでに赤ちゃんを連れて来た議員はいない)。
緒方市議に「強行突破はマズかった。効果はないよ」との批判が成り立つと同時に、「議会だって、傍聴人だけでなく、議場への入場に関する詳細な決め事をしておくべくだった」との批判も成り立つだろう。
両者に「手続き的問題」があったわけだ。

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「常識的には有り得ない」。しかしまた、このくらい強行なことをしないと世論を喚起できない、そういう空気がこの国に存在するのも確かだろう。あの「保育園落ちた、日本死ね」が~当初は表現において批判があったにもかかわらず~結局は世論と自治体に大きな影響を与えたように。
 男性市議が、「議場は神聖な場だ。愚弄する気か!」と緒方市議を批判したが、とんでもない。議場は「神聖」でもなんでもない。「ただの議場」に過ぎない。そういう意見には「偉そうぶるな、カッコつけるな」、と言いたい。
逆に、議員に限らず、一般論としては「幼児を持つ女性だけに特権があるのか?」という疑問は存在しうる。
 ここではしかし、一般論よりも、「託児所」創設が具体的な問題、課題として問題提起されたとするのが本道だろう。これについても、「市議会議員の月額報酬は、一般企業平均より高いのだから、自分で預ける施設を探して対応すべきだった」とする意見はあるし、一定の説得力はあるが、全て個人の問題とした場合、(今後、幼児持ち市議増加に際して)公的な対応力が問われるのも事実だろう。
 少子化時代における幼児を持つ母親応援体制、という社会問題である側面と、「それでも出産、子持ちかどうかは、基本的にはあくまでもプライヴェートな問題だろう。(先述の)幼児を持つ女性だけに特権があるのか?」との側面のいずれも存在すると思う。
なお、市議会事務局としては今後、議会規則の変更を検討する予定は当面ないという。
 一方で、緒方議員は一昨年、「宿泊を伴う視察」に子どもを同伴出来るよう議会や議会事務局に求めており、市事務局はこの要請を、「同伴者の旅費は自費であること」「視察先の会議には同席しないこと」を条件に認めている。

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 今回の問題に際して、様々な意見が出たのでメモしておくと、
市議会関係者や熊本周辺の市民から~澤田議長は「子連れでも議会に参加できる仕組みを考えたい」と述べ、近く開催する議会活性化委員会で議論する方針を示した。同議会共産党の那須円市議は「事前に議会運営委員会に相談すべきだったが、欧州では乳児を連れて議場に入ることもある。子育て世代の議員活動について議論が必要だ」。

 西日本新聞の調査で60人に賛否を聞くと、反対6割に対し賛成2割、どちらとも言えない2割~40代の女性県議は「今回の行動を取る前に、まず規則を変えるために働きかけをするべきだった」。人吉市の60代の男性市議も「もっと違う方法があったはず。議長に事前に相談すべきだった」と語った。
また、他の調査では、生後5ヶ月の次男がいる熊本市の女性(33歳)は「小さい子供がいて働きたくても働けない母親たちの声を代弁した行動」と支持。生後5ヶ月の長男がいる主婦(29歳)は「議会の開始が遅れて他の議員にも迷惑がかかり、結果的に周囲の反感しか買わない行動だったのではないか」と疑問を投げかけた。
 荒尾市の50代の女性市議は「子育て中の女性ならではの目線や意見は議会でも重要で、男性主体の議会を変えていってほしい」と評価。過去につえの持ち込み禁止規則を改正した南阿蘇村議会。男性村議は「女性の社会進出を考えれば、こうしたケースを想定した規則の改正も必要。子どもが議会活動の足かせになってはいけない」と語った。

山鹿市の中嶋憲正市長(67歳)は「議会の了承を得ずに行動を起こしたということで手続き的な問題はあるようだが、子育てしながら働く女性の環境整備に一石を投じた行動だ」と回答した。
 阿蘇市の自営業男性(62歳)は「何か事が起こらないと、社会の不自由は打破されない。勇気ある行動」。熊本市中央区の男性会社員(24歳)は「これまで議会が考えてこなかった責任でもある」と話した。
水俣市議会をよく傍聴するという自営業男性(68歳)は「議会の対策がいかに遅れているかを示している。世界の先進例はどうなのか参考にした上で、日本の政治風土にも合う形で改革を目指すべきだ。熊本市議会だけの問題ではない」。

 熊本市中央区のパート女性(50歳)は「どうなんでしょう。報道を見てずっと考えていた。議会にいなければならない赤ちゃんもかわいそうだし、仕事との両立は難しいのもすごく分かる」と話した。
 海外では、
子連れで議会に参加することを認めている国もある。オーストラリアでは昨年、規則が改定され、子連れでの議会入場が認められるようになった。アイスランドでも昨年、子育て中の女性議員が授乳しながら答弁に答え、話題を呼んだ。

 最後に面白い指摘を
「なぜ子供を連れて議会にでてはいけないの。企業とは違う。地方議会ってさあ、その地方の将来について議論する場所でしょう。子供が泣いたら進行に差し支えるとか泣いてもいないうちにいうな。泣いたら外に連れ出せば良いし、だったらいびきかいて寝ている議員とかも懲戒処分にしないとな。普通の会社ならいびきかいて会議中に寝ていたらクビですけどね」

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 (注)アグネス論争
1987年、歌手・タレントのアグネス・チャンが第1子を出産。彼女がその直後にこの乳児を連れてテレビ番組の収録スタジオにやってきたことについて、林真理子、中野翠などから「大人の世界に子供を入れるな」、「周囲の迷惑を考えていない」、「プロとして甘えている」と批判。また、竹内好美は、「旧態依然の良妻賢母を演じるアグネスをも支持しないが、林氏の独断が、女性、子供、その他の、男性社会における弱者たちを疎外するためのキャッチフレーズにいつでも転じ得ることに、あなたは気づいていないのだろうか」として、いずれの側にも立たなかった。
 当時、アグネス・チャンは12本のレギュラー、準レギュラー番組を抱えており、テレビ局から「早く復帰してくれ。子供を連れてきてもいいから」などと説得を受け、不安に思いつつ職場に復帰したというのが真相だという。
この論争の背景には、少子・高齢化社会の到来を前に、男女雇用機会均等法の施行などがあり、当時女性の社会進出機運がマスコミ等で注目されていたことが挙げられる。アグネス・チャンは参議院の「国民生活に関する調査会」に参考人として呼ばれ、育児休業法の実現や保育環境の整備を訴えたが、これが「子連れ出勤」の是非を問う「アグネス論争」の新たな火種となった。
 批判が起こる一方で、アグネス・チャンはマスコミから「働くお母さん」の代表格として持ち上げられたりもした。一部のテレビや雑誌は、彼女の出身地である香港の芸能界の風習である子連れ出勤を批判的に取り上げたが、社会学者の上野千鶴子が『朝日新聞』紙上で「働く母親の背中には必ず子供がいるもの」としてアグネスを擁護した。
 このように、アグネス論争は批判派・擁護派入り乱れて、あらゆるメディアで賛否両論が繰り広げられ、約2年間続くこととなる。
 この一連の日本の報道はアメリカの雑誌『タイム』に取り上げられ、アグネス・チャンはその記事を読んだスタンフォード大学のマイラ・ストロバー教授の招きにより渡米し、女性と教育のかかわりについて学ぶことになった。これらを契機として、アグネス・チャンは自身の問題を社会的問題と捉え、スタンフォード大学の博士課程に進み、日本とアメリカの高学歴者の男女間格差を比較・考察した卒業博士論文により、教育学博士号を取得した。
 アグネス論争当時は、アグネス・チャンが主張した「企業内保育所」を整備する事業所は少なかったが、近年大手企業などを中心にオフィス周辺に保育所を整備するところが増え、その数は全国で5000を超えている。

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主な批判と擁護、いずれでもない立場からの発言の一部を記す。

 アグネス本人
あくまで私たち親子と仕事の現場の人たちとの間の問題。その点、仕事先の人たちよく理解してくれて、息子がいることを面倒臭がるどころか、むしろ来ることを楽しみにしてくれるほどだった。それが、子連れが正しいか間違いかという議論に発展していった。私は香港人のせいか、結婚して子供が生まれても、働くのは当り前と考えていた。仕事をやめるかでなく、どうやって両立させるかだけが、私にとっての問題だった。人に預けっぱなしにしたくないので、考えたすえに子連れ仕事が始まった。子育ては人それぞれ。私は自分の子育てが百パーセント正しいとは思っていない。他人に迷惑はかけないように注意しる。ひとつの実験だと思って、見ていただければ幸い。

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 林真理子(作家)
他人の子どもというものに、すべての人が愛情や好意を持ちはしないというところから「迷惑」や「社会生活」という議論はスタートする。「みんなが喜んでくれている」という単純さは、ふつうの人はまず持たない。しかしその単純さを武器に、宗教めいたことをしてしまうところが、アグネスという人物の不思議さでもある。ふつうの女だったら、「ちょっと待てよ」と思う。この世の中には、要求できること、要求できないことも確かに存在しているのではないか。地域の保育所をもっと完備せよ、零歳児保育を充実させろというのは、当然要求すべきことだろう。しかし、自分の子どもを職場に抱えていって、仕事の合い間におっぱいをあたえ、また自分の席に戻ってくるというのは、働く人間としての自負心が許さない。それはあまりにも甘ったれた夢物語だと思う。

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 中野 翠(評論家)
アグネス・チャンがテレビ局の楽屋に赤ん坊を連れてきて育児をしていることが美談らしい、快挙らしい。驚いた。さらに、アグネスが「職場に(テレビ局に)託児所ができて、みんな赤ちゃんを連れてくるようになるといいな」といい出し、それを何か進歩的な思想のように取り上げているのには、もっと驚いた。アグネスは本気で「職場に託児所を」と考えるのなら、それをテレビ局に望む前に、まず自分の会社(最近、夫を社長にして独立した)で実現してみたらどうか。託児室を設け、すすんで子どもを抱えた女性を社員として雇う努力をしてみたらどうか。芸能人というのは特殊な職業だが、世間的基準で見れば、テレビ局にとって彼女はいちおう「出入り業者」という立場なのだからね。
 アグネスの個人攻撃をするつもりはない。私が不思議でたまらないのは、マスコミが彼女を働く女のオピニオン・リーダーか何かのように美化し、祭り上げていることだ。恥ずかしい。中でも朝日新聞は、アグネスに対して妙に好意的だ。同じことを松田聖子がやったとしたら、どうだろう。断言するが、完全に黙殺したはずだ。それでようやく私はさとったのだった.「子ども」は、今や聖域の中のイキモノなのだ。今や「子ども」は「平和」「健康」と並んで、現代日本の三大神様───けっして相対化されることのない絶対的正義になっていたのだと。

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 上野千鶴子(学者)
林真理子の「正論」から見れば、アグネスさんのやっていることは「甘ったれ」た非常識、横紙破りにちがいない。だが、こういう「正論」で、女たちはこれまで何を失ってきただろうか。「正論」はしばしば抑圧的な働きをする。ルールを守れ、と叫ぶのは、ルールに従うことで利点を得る人たちである。女たちはルールを無視して横紙破りをやるほかに、自分の言い分を通すことができなかった。女たちが要求してきたのは、「仕事も子どもも」「有給の育児休暇を」「託児室つきのコンサートを」と、どれも前例にない非常識だった。
アグネスさんは、山口百恵さんのように「結婚退職」も、松田聖子さんのように「育児休業」もしなかった。それはアグネス一家が「共稼ぎ」だから当然、という見方もあるが、昔から「共稼ぎ」の芸能人家庭は、お手伝いさんを雇って子育てを切り抜けてきた。庶民には手の届かないベビーシッターも、アグネスさんの収入ならいくらでも調達できるはずである。
 だがアグネスさんはそれをやらなかった。周囲がドギモを抜かれる中で、芸能界で初の「子連れ出勤」という「非常識」をやってのけた。もちろんアグネスさんという「特権階級」と「ふつうの女たち」とを同列に論じることはできない。だがアグネスさんが世に示して見せたのは、「働く母親」の背後には子どもがいること、子どもはほっておいては育たないこと、その子どもをみる人がだれもいなければ、連れ歩いてでも面倒をみるほかない、さし迫った必要に「ふつうの女たち」がせまられていることである。
いったい男たちが「子連れ出勤」せずにすんでいるのは、だれのおかげであろうか。男たちも「働く父親」である。いったん父子家庭になれば、彼らもただちに女たちと同じ状況に追いこまれる。働く父親も働く母親も、あたかも子どもがないかのように職業人の顔でやりすごす。その背後で、子育てがタダではすまないことを、アグネスさんの「子連れ出勤」は目に見えるものにしてくれた。
 女による女の「子連れ出勤」批判を、高見の見物して喜んでいるのはいったいだれであろうか。この「代理戦争」の本当の相手は、もっと手ごわい敵かもしれないのである。

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 冥王まさ子(作家)
子連れ出勤ができないのは働く人間としての自負心が許さないからではなく、仕事にさしつかえないとしても世間が許さないからだということは、仕事をもつ母親なら誰でも知っている。働く人間の自負心とは仕事の内容で勝負することだ、ぐらいは、職業をもつ人間の「常識」である。他人のプロ意識を云々する前に自分がはたしてすぐれた仕事をしているか問うのも働く人間の自負心である。それはともかく、子連れ出勤をめぐってアグネスさんの言動が目に余るとして紙面批判する人たちは職業意識よりも重要な認識を欠いているのだ。つまり、その批判はたとえば、「みんなが我慢しているときに自分だけ勝手なことをするのはずるい」という、校則違反をめぐるある中学生の投書と軌を一にしており、それは規制が上野さんがいう通り「抑圧的に働いて」いる社会においてのみ「正論」なのだ、という認識である。その「正論」がどれほど抑圧された人から吐かれたのかは知らないが、子連れ出勤が「許されたらどんなにいいだろう」とあるのはけっして慨嘆ではなく、許してやるものか、の意を含んでいるのは明白で、つまるところ特権的例外を特権的に排除しよう、ということにすぎないのだ。

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 竹内好美(コピーライター)
アグネスが長男をスタジオに連れて行っているという話題を初めて耳にした時、大多数の働く女性は、好意的に受けとめたことと思う。その後、登場したアグネス批判に対して、働く女性たちからの反論がまったく出なかった理由は、林さんのヒステリックな論調に嫌気がさしていたこともある。が、それ以上に論争の中心が「仕事場で子連れは是か非か」という、働く女性の側からすればおよそリアリティーのないテーマに終始することになってしまったからだ。労働者としての私たちは、もちろん仕事場に子連れで行くことを企業に要求できるが、それを要求する気はない。実に簡単なことだ。
 赤ん坊を抱いて道を歩く時、私は小学生がこぐ自転車すら怖い。行き帰りで数百段になるだろう階段の昇り降りが怖い。踏切りを渡る途中で降りて来る遮断機が怖い。赤ん坊の顔にかかるタバコの煙が怖い。電車の中にうようよいる病原菌が怖い。怖いものだらけで朝晩五〇分ずつの通勤時間。赤ん坊と自分に降りかかってくる緊張と疲労。こりゃどう考えたって、家の近くの保育所に預けるんがラクチンに決まっている。こういうごくごくあたり前の正論がまったく出てこないで、いつまでも感情論が展開されているところに、現実の働く女性たちは、自分の実感との大きなギャップを感じてしまう。
 男があくまでも家事労働から逃げるなら、すべて自分一人で引き受けるしかない、と悲愴な覚悟をし、仕事は続けていこう、だが毎日帰りが遅い夫をアテにすることはできない、仕事も、家事も、育児も、自分だけを頼りにやっていこうと決意した女性。「職場に託児所を」と要求するのは、このタイプのスーパーウーマンなのだ。
 母親の職場に子供がいるという状況は、実は、父親が子育てを完全に拒否していることにほかならない。子供の送り迎えは連日まったく母親一人に任される。父親がわざわざ母親の職場へ子供を迎えに来るケースはほとんどないだろう。先程述べた子連れ通勤の肉体的、精神的な負担がすべて母親の肩にかかってくる。
「職場に託児所を」という要求を女性たちが掲げて行動し、仮にその要求が実現されたとしよう。
それでは、今まで男性社会を都合よく根底から支えていた良妻賢母たちが仕事を持ったことにしかならない。男性社会の一方的な論理に文句も言わず忍従してきた女性が、家庭と仕事の両方の場で更なる忍従を強いられるという結果しか得られないのだ。
 働く女性が、今 しなければならないことは、働く良妻賢母になることではない。私たちは働く。家計の半分を引き受ける。だから、家事と育児も半分ずつ。もちろん、保育園の送り迎えも半分ずつ。一番身近な存在である一人の男性に要求することなのだ。生産性のみを追求する男性社会で、子育てというハンディを背負った女性の生産性は〇・五程度にしかカウントされない。確かに、家事と育児のすべてをこなしていれば、それはいたし方ない。だが、その負担が半分になればどうだろうか。私たちは、もっと評価される働き手になるはずだ。
 私たち、働く女性は、歴史的には「悪妻」と呼ばれ、侮蔑の対象とされてきた女性として生きていこう。そういった意味では、私たちは旧態依然の良妻賢母を演じるアグネスをも支持しない。だからといって、林さんに勝ち誇ってもらっては困る。「私には守らなくてはならない大人の世界というものがあるのだ」という林さん。その独断が、女性、子供、その他の、男性社会における弱者たちを疎外するためのキャッチフレーズにいつでも転じ得ることに、あなたは気づいていないのだろうか。

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