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2017年8月 5日 (土)

合唱のうまさとは?~あるいは参加する団員に寄り添って考えてみる

本文は、表題どおりの 「合唱のうまさとは?~
あるいは参加する団員に寄り添って考えてみる」なのだが、
その前に、これを書くキッツカケとなった事を記す。

参考1;事前話題
クラキコで第九合唱の話題が
「クラシックを聴こう!」サイトに、ある人が「ボクは、実は、
第九の合唱が嫌いなんです」と投じたことで話題になっている。
反発すなわち好きな人はほとんどコメントを寄せておらず、
同意とか、何らかの疑問なり意見を持った人が
 (無論レベルはまちまちだ)書きこんで、
「いいね」の数やコメントの数が賑わっている。

私は真面目に付き合う気はないが、幾つか「ジョブ」を
入れた。例えば、
「この程度の独り言のような投稿に対して、これだけの
 反応が出る事自体、第九が偉大な作品であることを
 証明してますね」とか、

第九=合唱部分と思っている人の有名な逸話として
次のものを紹介した。
 ~「第1楽章、2楽章と進む中、その女性は隣の友人に
 そっと尋ねた。~あの、第九はいつ始まるのですか?」

~これはけっこう受けて「いいね」をたくさんいただいた。

また、普段から互いに「詳しいね」と認め合う、私より
10歳くらい年長の男性が、
「僕は特別ベートーヴェンが好きなわけではないが」として、
それでも如何に「第九が好き嫌いを超えて偉大な作品か」を
真摯に述べている(投稿者に対する事実上の最大の反論)
を読んで、ちょっと感動した。
そのことは、その人にも伝えた。彼はテレていたが。

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参考2;もう1つ続きを~上には上が?
1つ前に披露した冗談話(逸話)の、
「あの、第九はいつ始まるんですか?」をクラキコに投じて
「受けた」が、上には上がいて、これは「実話です」として
紹介していた人がいた。その内容はこうだ。

~あるママさんコーラスの人が第九を初めてステージで
歌い、終わってから楽屋で同僚にこう尋ねたそうだ。
 「私たちが歌う前に演奏されていた、ゆったりとした曲、
  キレイな曲だったわね。あなた、あれ、
  何の曲だか知っている?」~

この信じ難いほどのユーモラスな話には「負けた」と思った(笑)。

それはともかく、クラキコに投じられた
 「僕は第九の合唱が嫌いです」をきっかけに、
第九に限らず、合唱に関して今回真面目にいろいろ
考えたことを、以下、書いてみたい。

相当長くなると思いますので、事前に謝っておきます。

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 ここからが本文

合唱のうまさとは?
 ~あるいは参加する団員に寄り添って考えてみる

 1.「いろいろな第九合唱」があってよい

第九の合唱が嫌いとか好きとかは個人の自由。
何度か書かせていただいたが、

 「歌い慣れていない人も、どの国の、何歳の人でも
  歌うことが許されている曲、クラシックの合唱曲の中で
  ほとんど唯一例外的に誰もが参加してよい曲が、
  第九の合唱」

というのが私の見解、私見だ。

先日もある人が
「ベートーヴェンは一人でも多くの人に歌って欲しかった、
 欲しいと思っている曲ではないか?」とコメントされて
いたが、本質を突いたステキなコメントだと思う。

日本には外国に例を見ないほど数多(あまた)の
アマチュアのオーケストラがあり、それを上回る数え切れない
ほどの合唱団が全国各地にある。
合唱団のプロは東京混声合唱団などごくわずか。

アマチュアもコアな団体だけでなく、いわゆる
「第九を歌おう」と市民行事として臨時に企画され編成される
団も少なくないから、レベルは当然マチマチだ。

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私見では、少なくとも関東圏では東京交響楽団併設の
東響コーラスが上手い。何しろ東響がとりあげる曲
(当然、近現代曲もある)の
「その都度、オーディションでメンバーを決める」というくらい
徹底している。そこには当然「甘え」が入る余地は無い。

栗山文昭さん指導の複数の合唱団が、プロオケ等が
大曲をやるとき各団から選抜編成される「栗友会」も巧い。
プロ合唱団にしか歌えないだろうと想っていた
三善晃の「レクイエム」をやってのけたのには驚嘆した。
驚くべきレベル、実力だ。

この2つは、「まず特定の曲ありき」で編成されるため、
必然的に男女等各パートの人数バランスも良いことになる。

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「上手い(巧い)」合唱のポイントや特徴は色々言えるだろう。

音程の正確さ、パートに相応しい一定の厚みを保った音質と
均一性(もっとも曲によっては均一感が無いほうが良い場合も
ある)、その言語の正確で明瞭な発音、
子音や母音の強弱バランス、声量(音量)における
各パートの安定した質感と全体のバランス配分、
音の立ち上がりが遅れないこと、指揮者やオケ、ピアノ等の
反応の俊敏さ、何よりその曲に対する「ひたむきさ」等々、
一般論でももっとあるだろうし、

個別の各団の事情や状態でも異なる様々な点の修正(改善)
から目指す演奏に足りない点を修正していく力量等、
挙げたらキリが無いだろう。

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むろん、そうした「うまい合唱団」だけが存在意義が
あるわけでなない。
各団にそれぞれ色々な要素、個性、レベル等があってよいし、
あって当然だ。
オーケストラとの共演とかではなく、純然とした合唱曲に
取り組む合唱団もあり、むしろそちらが一般的で圧倒的に多い。

そもそも、プロはむろんアマオケとでも第九で共演できる機会は
全ての合唱団にあるわけでもない。

また、レベルに関して言えば、
「完璧な演奏だけに感動するわけではないのが
 音楽の面白いところ」でもある。

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第九に関しては、ここ数年の中で私は、埼玉県の3つの市民団体
による第九を聴いている。
昨年12月に聴いた飯能市民による第九合唱、
2年前に聴いたふじみ野市民による第九合唱、
4年前に聴いた所沢市民による第九合唱。

この3団体に限ったことではないが、いずれも、
「ご年配衆が多く、女声が多く男声が少ない」のは
共通した要素だし、レベルも音程が完璧とは言い難い
だけでなく、ドイツ語というより「カタカナ語による第九」
というレベルではある。

それでも、終演後のロビーで、出演した合唱団員が
友人や家族らと「本当に幸せそうに語り合っている」姿、
様子を見ると、
「これも第九だ。こういう第九も絶対あってよい。
 全ての人は皆兄弟となる、とするシラーの詩を用いた
 ベートーヴェンが否定するわけはないだろう」
と思うのだ。

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音楽に自ら取り組み、整えて完成させていく楽しみ。
皆と音程だけでなく声の質感等を合せることの難しさと楽しさ。
何よりも自身が主体的に楽しむこと。その喜び。
それを聴きに来てくれる人々との心の、音楽の交流。
そうした喜びは参加側に入らないとなかなか感じ取れないと想う。

そしてそうした「アットホーム」な団には、例えば最近
「栗友会」の一部の合唱団がやり始めた
「50歳以上お断り」などというバカげた、
ほとんど意味の無い年齢制限など有り様が無い。
そのような「差別」や「排除」とは無縁だからこそ
生まれて来る音楽をやっている人達だからだ。

短い(あるいは長い?)人生において、オーケストラと
ステージで、お客さんの前で第九を歌える機会など、
一般的には「そうそうない」(都会の有名合唱団は別だが)。
正に人生の一大イベントでもある人も少なくないのだ。

それを世界中の市民に提供したベートーヴェンは凄い。
正に好きとか嫌いとかさえ超えた曲だ。

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 2. 私が注目する第九の合唱の中のポイント例

第九の合唱では、655小節から開始する4分の6拍子の
アレグロのフーガが難所の1つだろうが、私が指揮者や
合唱団がどれほど言葉やフレージングを大事にして
取り組んでいるか、を判断するポイントはそれより少し前に
在る。

595小節から3分の2拍子のAndante maestosoが
荘厳に進んで行き、いったん静まる627小節の
Adagio ma non troppo,ma divotoに入って間もないところ、
631小節から632小節にかけての「Ihr stürzt nieder」と
歌うところだ。

この特に「stürzt」は四部音符の長さだが、その前に
「Ihr」で2拍半(5拍)伸ばしてからの四部音符なので、
6拍の中の最後の1拍ということからか、案外「さくっ」と
安易に過ぎ去るように歌われてしまうことが多い。

私はそれではダメだと思う。

「Ihr」で伸ばして(しかもクレッシェンドとディミヌエンドを
して)「nieder」に入る直前のこの四分音符の「stürzt」は、
時間をかけて、すなわちテヌートでゆったりとはっきりと
「stürzt」を発声させるべきだと思う。

もちろんそのように指示して歌わせる本番での指揮者、
あるいは合唱指揮者はいるが、必ずしも誰しもそうする、
ということでもない。

この部分の練習シーンに立ち会うだけでも、
この曲の言葉と音楽への思い入れ、研究度合いが
判ってしまうと想われるほどの、重要で「恐い」部分
だと想う。

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 3. 暗譜について考える~合唱全般について

日本国内の優秀な合唱団は暗譜で本番に臨むケースが多い。
第九はもちろん「復活」も多々あるし、中には
「カルミナ・ブラーナ」のような言葉の難しい曲を暗譜で歌える
合唱団も複数ある。

欧米はどうかというと、第九はともかく、歌うところが30分を
超す様な曲ではまずほとんど楽譜を手にする。
けれど優秀な合唱団は譜面をめくりながらだろうと何だろうと、
発音、音程、表現、アンサンブル、活力の全てに立派な演奏を
やってのける場合が多い。

むろん、欧米の言語は、極論すれば、わずかでも兄弟姉妹言語
に近い、あるいはルーツを共にしたものとも言えるし、
欧州の教育自体からして、2つ前後の外国語を話す
一般市民はどの国にも一定数いるという状況が土台にある、
ということはある。
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さて、日本のケースに戻って考えると、暗譜したほうが
指揮者を見続けられるので、利点は当然多い。
譜面を落とすリスクもなければ、めくる際に生じがちな雑音も
生じない等々、効率的で有効的だ。

問題は(あるとすれば)、
「暗譜したことで曲が完全に把握できたと思い込んで
 しまうこと」ではないか?と私は思う。

日本人は真面目だし、西洋文化に対する敬意と
「吸収力」それを活かした「応用力」も含めて、昔から、
機械産業も含めて様々な場面でその「長所」は有効に作用
してきた。

しかし、私は、
「ちゃんと暗譜していますよ。凄いでしょう。
 この難しい曲を楽に歌えてますでしょう」という自信、
というより自慢げに合唱団が歌っている姿、それを
「感じてしまったこと」は一度や二度ではない。

そうした演奏に接した場合、感想は
「巧かったですね。凄いですね」で終わってしまい、
「心から感動しました」とは言い難い、
純粋な感動とは少し次元が異なってしまうもの、いわば
「悪しき教養主義」を感じて残念に思った記憶が過去、
複数の合唱団で何回かあった。

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言うまでもないことだが、アンサンブル演奏は、
まず奏者らが共感して精度に注力しつつ、それぞれが
「思い」を込めて演奏し、それによって素敵な合唱や合奏となる
ことで聴衆に喜んでいただくことに大きな意義と目標、目的が
ある。
演奏者が完璧を目指して、完成度を高めるのは当然で、
それは団内の当然の目標であって、それ自体を他者である
聴衆にPRする必要はもとより無い。

「生みの痛みや努力」をお客さんに伝える必要はなく、
 結果を披露することが本番演奏なのだから、
  「暗譜(していること)自体」がどうとかではない。
 それ自体は聴衆には関係ない。

お客さんは良い音楽と良い演奏を聴きに来るのであって、
「暗譜するまでに頑張りましたという姿」を
見に来るわけではない。

もちろん、暗譜で「音楽的に」、「指揮者に不満を感じさせる
ことなく反応できる」なら、それに越したことはない。

重要な事は、先述の
「暗譜しました、凄いでしょ、というムダな教養主義に
 陥らないこと」。

優秀な合唱団ほど、一つ間違えると、
この「勘違い」に陥り易い危険があるように想える。

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 4. 「思いが入る演奏」とは何か~極端な例の紹介

最後に例外的で極端なケースだが紹介したい逸話がある。
林光さんの偉大な名曲「原爆小景」は今でこそ「古典」と
言えるほど知られるようになっているが、まだそれほど周知
されていない時期に、女子高生合唱団が演奏したとき、
曲の詩の内容の、あまりの凄絶さに、第2楽章、第3楽章と
進む中、生徒(団員)らは一人二人とシクシク涙声になっていき、
最後まで行かない段階で止まってしまった、ということが
あったそうだ。

会場は静まり返り、その場にいた畑中良輔さんも
呆然としてしまったという。
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しかし、畑中良輔さんはそのときの思い出を~あるいは感動
と言ってもよいだろうが~こう書いた。

「演奏としてはむろん失敗である。しかし彼女たちが歌った
 あの「原爆小景」は、私には一生忘れられない演奏となった」

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むろんこれは稀なケースだし、少なくともプロの場合は、
器楽であれ歌手であれ合唱でも、聴衆に感動を与える
ことができる演奏が最高最終目的だし、むろんそのために、
まず自分が感動をもって演奏することが無いと
他者には伝わらないだろうが、とはいえ、
自分の感情が制御されなくなり、演奏に支障がきたすのは
プロとしては、あってはいけないことだろう。

俗な言い方をするなら、
「お客さんを泣かすのがプロ(に限らず演奏者)の仕事
 であって、自分が先に泣いてはいけない。

いや、「いけない」は言い過ぎかもしれない。
美空ひばりさんが「悲しい酒」を涙ぐんで歌う姿に
感動したように、「ラ・ボエーム」でミミが泣いてもかまわない。

要は「それでも演奏に支障をきたさないこと」だ。
美空ひばりさんがそうであってように。

ここでの「原爆小景」は、10代の少女による演奏
とはいえ、それでも例外中の例外のエピソードだ。

それでも、アマチュアとしてオーケストラや合唱で
ステージに立つことが多い私は、
何かを演奏しているとき、フッと思うことがある。

「あの原爆小景を涙ながらに歌った少女たちに
 負けないほどの思い、感情移入で、
 今、この曲に臨んでいるだろうか?」と。

少なくとも「そうした気持ち」が皆無の演奏だけは
したくない、と思う。

以上です。長文をお読みいただき、ありがとうございました。

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