« 香川県議会議員たちの欧州視察と言う名の お遊び海外旅行~税金の遊興費化 | トップページ | 防衛大臣 実質不在というリアル »

2017年7月26日 (水)

相模原市「津久井やまゆり園」虐殺事件から1年に寄せての雑感

結局のところ、「一人一人が、自身の中に有るかもしれない
内なる差別意識や偏見を正直に見つめ、排除していけるか」
が重要ではないか?
すなわち「ヒトゴト意識の排除」だ。
結論としてはそうなるが、その前に個々具体的に考えてみよう。

他者が他者に「生きている価値が無い」などと、
そもそも誰も言う権利も資格もない。

仮に有るとしたら、今、刑務所の中で、税金を原資とした
タダ飯を平然と食べて寝て起きている植松聖被告にこそ
「お前こそ生きている価値はない。
 さっさと自分で自分を殺せよ」と言えることになるのだが、
その絶対的矛盾に植松自身が気づいていない事が、
問題の根深さを示唆し、病理は深い。

「自分の考えが世界で正しい真理と思いこむ」。
犯罪者やヘイト思想者は言う。
「意思疎通ができない人、障害を持つ人は、
 生きる価値が無い」と。
さも、正当であるかのような言葉を吐く。 しかし、
係る社会とは関係ない世界で生きている人からすれば、
それこそ意味不明の「余計なお世話」に過ぎない。

人間は、お金と土地があれば、いわゆる「社会」の中に
居る必要などそもそもない。
居なくて生きていける。
いわんや「赤の他人から偉そうに、生きている価値などを
問われ言及される理由などそもそも無い」。

「障害者は不幸だ」と考えるのは、
その根拠を心情的にも論理的にも説明できない、
勝手な自己陶酔的思いあがりに過ぎない。
要するに「余計なお世話」だ。

そうは言っても、現代社会に生きる多くの人は、
仕事や学校や趣味や享楽において他者の中で生きているゆえ、
他者との比較や競争が付いて回る中で、競争や嫉妬、
尊敬や憧憬、チャレンジ精神やリベンジ精神などを含めた
複雑な人間関係の中に否応なく存在しているが、元来、
「そういう社会」の中で生きろと強制されたわけではない。

そうした社会から出る~逃げるといってもよいが~
そうした社会を避けても、実は何ら構わないのがまた人間
という動物の1つの真理でもあるのだ。

むろん実際はそのように自由気ままに豊かな大自然の中で
自炊してのんびり生活してる人の数は多くはない
 (が皆無ではないことを忘れるな)。

人間は生まれてきたこと自体、1つの奇跡だ。
ところが、一般的な「経済社会」の中にあって人は
「働かざる者、食うべからず」という説得力のある真理を
多くの人は述べる。
なるほど、普通の現代社会の中ではそれは1つの真実
かもしれない。

だが、あの1年前の事件が我々に突き付けたものは
「それは本当か?役にたたない人間は生きていては
 いけないのか?死に値するのか?」
ということに他ならないのだと思う。

労働力、役に立つ、生産性を有する、という人間に、
報酬がもたらされるのは当然だが、しかし、では、
その条件の中に「たまたま入れないような状態で生まれて
来た人は生きていてはいけないのか?」

1年が経ったこの日、TVで障害を持つ子の母親が言った
「役にたたないとダメなの?」という素朴にして強靭な言葉は
胸に突き刺さる。

人間は生まれてきたこと自体、1つの奇跡なのに、
「個々の労働生産能力」と「生きていること自体の価値」を
イコールあるいは強い関係性として私たちは考えがちだが、
「この2つを分けて考えること」から始めないと、
「誰もの中にあるかもしれない植松的偏見と差別意識」から
脱しきれないのかもしれない。

冒頭に書いたように、ヒトゴト的キレイ事的に常識的理性の
言葉をならべて自分自身を繕うより、
「各人一人一人が、自身の中に有るかもしれない内なる
 差別意識や偏見を正直に見つめ、排除していけるか
 どうか」という点こそ、
問題に対処していけるかもしれない重要な出発点としての
ポイントのように想える。

« 香川県議会議員たちの欧州視察と言う名の お遊び海外旅行~税金の遊興費化 | トップページ | 防衛大臣 実質不在というリアル »

ブログ HomePage

Amazon DVD

Amazon 本

最近のコメント

最近のトラックバック