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2017年6月13日 (火)

岩城宏之さんの命日に寄せて

6月13日は故・岩城宏之さんの命日なので、私が活動するオケと
岩城さんの指導を中心に思い出(ご参考)として、
以下少し長くなりますが、書かせていただきます。

岩城さんは学習院中等科、高等科から東京芸大に進んだ
ということもあり、「俺はアマチュアは嫌いだ」とボヤきながらも、
私が団員である学習院OB管弦楽団(以下「OBオケ」)を
4年に一度位のペースで振りに来てくれました。

これは当時、「おい、岩城、そろそろ振りに来いよ」と言える
大先輩がまだ在籍されていたことも大きかったかもしれません。
亡くなった2006年も、その年の7月には第九を指揮していただく
ことになっていた矢先での急逝でした。
5月のリハには車イスで来場されたので、内心
「当日、(体調的に)ちゃんと指揮できるのだろうか?」と
心配になりましたが、まさか亡くなるとは思いませんでした。

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1.「精神的師匠、財産というべき存在」としての岩城さん
岩城さんから教わったことは音楽面はむろんですが、むしろ
もっと大きな根本的なことをたくさん教えていただいたと
思っています。
主な事例を3つ挙げると、

①1985年位だったか、練習中、ホルンの1人が遅れて来て、
申し訳なさそうに静かに着席すればよかっただろうに、
堂々と悪びれることなくドカンと座ったため、
岩城さんは烈火の如く怒り、「帰れ!」とその奏者を帰らせて
しまいました。そしてこう言いました。

「皆さんは確かに普段練習する時間は少ないかもしれない。
 だからと言っていい加減に考えるな。
 アマチュアこそ、命がけで音楽をやれ!」

当時、私はまだ20代と若かったので、「ふ~ん」という感じで
よく理解できなかったのですが、この
「アマチュアこそ命がけで音楽をやれ」は、
今ではよく理解できます。

②また、モーツァルトの「ハフナー」交響曲の練習中、
弦のデキの悪さに唖然とされ、
「普段からそんなモーツァルトで遊んでいるのか?
 弦は全員帰れ!」。
そのときはやがて怒りは収まり、弦メンバーは帰ることなく
練習は継続されましたが。

③運営に関して最も衝撃的だったのは「ボレロ」をやったとき
のことです。本番を1週間前に控えた練習時、
その日に限って、フルートの1番奏者とトロンボーンの1番奏者が
うまく吹けなかったので、岩城さんはそれぞれにおいて
「2番の君、吹いてみて」と言い、結果、誰が聴いても
2番奏者のほうが上手く吹いた(吹いてしまった)ので、
岩城さんは「入れ替わって」と指示(というか命令)を出しました。

なんと「本番の一週間前に、1番と2番を入れ替えた」のです!。

プロはむろん、アマオケだって通常あり得ない事です。
こんなことは客演指揮者はむろん、常任指揮者でも
なかなかできないことですが、そこは岩城さんとOGオケだから
あり得た、例外的に許された特別な絆の象徴的出来事
だったように想えます。

こうした3例から言えることは「厳しさ」ということです。
アマオケだろうと、演奏して、お客様に聴いていただく以上、
「妥協」や「甘え」は許さないとする姿勢。
それを言葉ではなく、現実の姿として教えられた思いが
しました。

「アマチュアこそ命がけで音楽をやれ!」。
これは故・堤俊作さんの信念でもあった
「音楽に、プロもアマもない」に共通する1つの真実
でもあるのでしょう。

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2.「現代曲に取り組む重要性を問うた岩城さん」
岩城さんが「初演魔」と呼ばれていたことを知る人は多い
でしょう。N響を中心に現代作曲家の作品の多くを初演
しました。 OBオケのリハのときも、
「僕はね、現代に生きているのに、同時代に作曲された作品を
 演奏しないなんてことは、許せないんだ」
と明言されていましたし、実際OBオケにおいても、

武満徹さんの「鳥は星型の庭に降りる」、
黛敏郎さんの「BUGAKU(舞楽)」、
外山雄三さんの「ディベルティメント」、
バーンスタインの「キャンディード序曲」等を演奏しました。

黛さんは演奏会当日に来場してくださいました。
武満さんにも来ていただく旨、岩城さんから連絡して
いただいたところ、あいにくパリでの仕事と重なっており、
来場はかないませんでした。もし来場されたら、
オケのデキに激怒されたかもしれませんが、
「それでもいいから来場していただきたかった」、と
今でも残念に思います。

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残念といえば私が好きな「ファミリー・トゥリー(系図)」を
やりたい、と岩城さんにお願いすると、
まんざらでもない顔になり、やろうということになりました。
実は岩城さんも「系図」が大好きで、音楽監督をしていた
「オーケストラアンサンブル金沢」でも演奏できるよう
室内オケ用に自ら編曲されるほどだった、ということは
後日知りました。

しかし、最初の練習で事件が起きました。
当時はまだショット社からスコアが出ていなかったこともあり、
私もオーケストレーションの詳細を知らずに、岩城さんに直訴
したのでしたが、あの美しい曲は、なんと、
弦のハーモニクス(フラジオレットという奏法)がたくさんあった
のです。
武満の曲にはハーモニクスが多用されていることは
詳しい人ならご存知だと思いますが、
「系図」はとりわけふんだんに使用されているので、
少なくとも当時のOBオケでは「困った状態」に陥り、
結果、また「いつかやろう」となったのですが、
実現できないうちに逝去されたのは本当に残念でした。

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3.「春の祭典」
ストラビンスキーの「春の祭典」はもはや古典であり、現代音楽とは
言えないと思いますが、OBオケにとっては
「本当にできるんですか?」と、団員誰しもが危惧する難曲
でしたが、「岩城さんがせっかく、やろう、とおっしゃってくれた
のだから」と2000年の夏の演奏会で演奏しました。

夏の定演の練習は、通常は2月(最近は3月)から開始しますが、
さすがに「ハルサイ」のときは1月から開始。
本番ではあれほど「途中で止まってしまうかもしれない恐怖感」を
感じたことはありませんでしたが、
岩城さんへの集中と信頼の一念で無事終了しました。

これには後日談があり、本番近くに、
香淳皇后(昭和天皇の皇后)が逝去されたため、
皇太子殿下が喪に服すため本番に出られなくなったのですが、
殿下も初めて演奏する「春の祭典」をとても楽しみにされていた
ことを皆知っていたので、
「殿下のために、なるべく早期にもう一度演奏しようか」
とする意見も出ましたが、その際も、
「でも岩城さんじゃないと(他の指揮者じゃ)
 恐くてできないよね」という意見が圧倒的で、
いかに「岩城さんなら現代曲も大丈夫」という心理、信頼が、
アマチュアである我々団員にも既に確固たる思いとして
存在していたことを改めて感じた次第でした。

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4.終わりに
岩城さんからは、「現代作品をなるべくたくさんやりなさい」
という遺言?をOBオケは引き継いでいます。
最近はやや遠ざかってはいますが、先日もコンマスと
「また、やらなきゃね」と会話したばかりで、
皆の脳裏に焼きついているのです。そして何よりも、
「人前で演奏する以上、アマチュアだからと甘えるな!」
というこの教えこそ、岩城さんから、私が、OBオケが、
学んだ最大の教え、遺言、宝物だと思っています。
未だ未だ書き足りないことはあるように感じますが、
今回はここまでとさせていただきます。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。
深く感謝します。

https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010119_00000

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