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2016年10月28日 (金)

ローラさん、トランペットで第九に挑戦~路上フラッシュモブ~TBS櫻井・有吉THE夜会より

TBS「櫻井・有吉THE夜会」で、ローラがさんがトランペットで
第九に挑戦した。
 ~路上フラッシュモブ~櫻井・有吉THEあぶない夜会より

コメントで意外だったのが、
「日本ではまだまだ若い人にはクラシックが浸透してない
 と思うから、少しでも多くの人にクラシックが好きになって欲しい」
という点。

ローラさんは、オペラなどを学ぶなど、クラシック音楽が
とても好きなことを今回初めて知った。

ただの、面白系おバカ系タレントではなく、
雑誌の編集長を務めるなど、実業界でも活躍されている。

人を外見で判断してはいかにダメか、
それをローラさんは教えてくれもする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
番組映像がアップされました。見逃したかた、
どうぞご覧ください。

その話題、映像に入るのは 10分20秒以降。
練習シーンから準備までが14分以降~。
路上ライブ=フラッシュモブ本番は23分以降~28分です。
https://www.youtube.com/watch?v=99xrfZI0JnQ

2016年10月27日 (木)

三笠宮崇仁殿下逝去

女性の活躍と社会の閉鎖性~東京新聞より

「男性活躍社会」と皮肉った宮子あずさ氏の文が面白いです。
 10月17日の東京新聞 連載「本音のコラム」より

「今年も日本の男性研究者がノーベル賞を受賞し、
国内が喜びに沸いた。
医学生理学賞を受賞したのは、大隈良典氏。
夫を支えた妻も称賛される、お決まりの報道には違和感が
募った。その中で秀逸だったのが、毎日新聞に掲載された
社会学者の藤田結子氏の受賞会見リポートだった。
性差別の問題に切り込む藤田氏は、妻の萬里子氏が
研究者を目指す若い女性に送った言葉を紹介した。

萬里子氏は、大学院時代に結婚。2人の子供を育てつつ、
良典氏の研究をサポートした(自身)研究者でもある。

「私は若気の至りで早めに結婚してしまったのですが、
 勉強は思う存分できる時代がある。きちんと勉強していれば
 その後の人生はかなり違ったと思う。
 私は勉強することを放棄してしまったが、若い女性は
 チャンスがあれば仕事をして、できれば自分の幸せを
 実らせて欲しい。そういう女性が増えているので
 期待しています」

家庭を女性に丸投げした男性が業績を上げる。
その陰で多くの女性が自分仕事を諦めている。
こうした声がもっと外に出て欲しい。
「女性活躍社会」が叫ばれる社会は(まだ)
「男性活躍社会」(ということ)。
妻の内助に支えられた男性の業績には、
批判があってもよい。
称賛されるべきは家事をきちんとシェアして、
女性を支えられる男性。女性の価値観も変わらねば
ならない」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これを読んで私は、先日の卓球の福原愛さんが結婚と
今後の選手活動の両立についての報告会見を思い出した。
愛ちゃんでさえ、「結婚後は家庭に、という価値観と
戦わなければならない、悩なければならない事なのだ。
まだ日本人社会はそういう社会なのだ」、ということが
(本人がそれを強調したわけではない分、
結果として)伝わってくる会見だったからだ。


同日付で、小川勝氏も女性監督増加について書いています。

下記に書いた宮子あずさ氏の文のちょうど真下(下段)に、
これもシリーズの「小川勝の直言タックル」で、
小川氏が「代表監督 女性相次ぐ」として書いているのが
面白い。いわく、

「バレーボール女子の日本代表監督に、久光製薬の監督
 である中田久美氏の就任が決定的となった。
 代表監督としての正式な活動は来春からになると
 思われるが、バレーボールでは1982年の
 生沼スミエ監督以来、久々の女性代表監督になる。

 4年後の東京五輪に向けて、サッカーでは今年4月、
 高倉麻子監督が「なでしこジャパン」の監督に就任した。
 また卓球でも馬場美香監督が女子の監督に就任
 したばかりだ。
 これで、五輪史上メダルを獲得した実績を持つ、
 日本女子の有力な球技の代表監督が、
 そろって女性監督になったわけだ。

 世界的に見た時、男女に平等な機会があるかと
 いう点で日本は今なお、大きく遅れをとっている。
 世界経済フォーラムは毎年「経済、教育、政治、
 健康」という4つの項目から男女平等ランキングを公表
 しているが、2015年の調査で日本は145カ国中、
 101位だった。

 労働への参加率、女性議員の割合、高等教育への
 進学率が低いのだという。
 そのような中で女性の代表監督が3人誕生したことは
 喜ばしいことではある。日本のスポーツ界で、
 中でも団体球技において、女性の監督が少なすぎたことは
 間違いない。(後略)」

2016年10月25日 (火)

与那城 敬さん バリトンリサイタル

わくわくするコンサートだった。
バリトン歌手の与那城敬さんのリサイタルを
ルーテル市ヶ谷で聴いた。

前半はイタリア語でもドイツ語でもなく、英語による歌曲で、
私は詳しくないし、クィルターは彼の研究者でもある
澤江衣里さんの歌唱で数曲聴いているが、
ヴォーン・ウィリアムズの歌曲は初めて聴いた。

なんと瑞々しく新鮮な歌曲だろう。
詩はルイス・スティーヴンスンという人で、下記に記したとおり
個々のタイトルからしてロマンティックで、クィルターが
選んだシェイクスピアの詩にも負けないほどの潤いを感じた。

クィルターとヴォーン・ウィリアムズの作品に共通して
いたのは、青年が旅の中で歓喜し、憧れ、悩み、
自分を鼓舞する若々しいエネルギーで、
いわば恋心を基盤としたものと感じた。

与那城さんはそれを余すところなく、表情豊かに伝えてくれた。
格調の高さはいつものことだが、加えてクールさよりも
情感豊かに、ときに激しく、強弱メリハリを自在に
徹底して表現するという果敢さがあった。

若々しい情感を堅固な技術で表現しただけでなく、
言葉自体に「柔らかさ」と「温かさ」が終始一貫して
在ったのは、英語という言語と関係していると思う。

そして「英語による歌曲は素敵だ」と思わせてくれたのは、
与那城さんの発音が極めて明瞭であったことによる。

ソプラノやメゾ、テナーだけでなく、ポップス歌手も含めて、
これほど明瞭な英語の歌を聴いた記憶はあまりない、
そう言いたいほど優れた発音だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして後半は、期待に違わぬマーラーの歌唱だった。
前半とは一転してドイツ語の歌唱ゆえ、
鋭さと一層の迫力が加わった。

「角笛」でのリズムとたたみかけ、
「リュッケルト」での抒情性、と、
それぞれ1曲ごとの色分け歌い分けも見事。

プログラム全体の構成としても、前半の曲と「角笛」は
概ねリズミックで躍動感と流動感ある歌が多かったが、
最後の「リュッケルト」では5曲中4曲は「しっとり」系
の、いわばバラード系の歌なので、
その配合、構成の妙も素敵だった。

前半の曲と、後半の特に「リュッケルト」は、
物語を正に「語る」ことに徹し、いわば、
「物語の主人公と一体となって表現した」を歌唱
だったと思う。
魅力的な歌手による魅力的なコンサートだった。

ピアノは山口陽子さんで、音の凝縮力というか集中力の
あるダイナミックな演奏で、とても素晴らしい演奏だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
曲は以下のとおり

1.ロジャー・クィルター
 シェイクスピアの詩による3つの歌 Op.6
 (1)来たれ、死よ
 (2)おお、僕の恋人
 (3)吹け、冬の風よ

2.ヴォーン・ウィリアムズ 歌曲集「旅の歌」
 (1)放浪者
 (2)美しい人を目覚めさせよ
 (3)道端の火
 (4)青春と愛
 (5)夢の中で
 (6)無限に輝く天空
 (7)私はどこへさすらうか
 (8)言葉の響きは明るく
 (9)のぼり坂もくだり坂も踏みしめて

(休憩)

3.マーラー「少年の不思議な角笛」より
 (1)塔に囚われた迫害を受けし者
 (2)誰がこの唄を思いついたの?!
 (3)起床合図

4.マーラー リュッケルトの詩による5つの歌
 (1)私はほのかな香りをかいだ
 (2)美しさゆえに愛するなら
 (3)私の歌の中を覗かないで
 (4)真夜中に
 (5)私はこの世に忘れ去られた

アンコール
 マーラー「少年の不思議な角笛」より離別
http://www.nikikai.net/concert/pdf/161025yonashiro.pdf

なお、楽譜は「角笛」のときのみ見ながらの歌唱で、
あとは暗譜で歌われた。

2016年10月23日 (日)

俊友会管弦楽団 第57回定期演奏会

2013年に亡くなった指揮者の堤俊作さんは
「音楽にはプロもアマもない」という信念から、全国各地の
アマオケを指導していたが、学生時代に指導を受けた
複数の大学オケ出身者たちが卒業後集い、
毎回、堤氏が振るオケとして1983年に結成されたオケが
この俊友会管弦楽団だ。

堤氏在任中は、マーラーの「千人」や、
シェーンベルクの「グレの歌」、
メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」など、アマオケが
選曲するには困難が伴う大曲に挑んだり、
2007年からは日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックの
自主公演に参加し、これまでほぼ毎年連続10回の公演を
オケピットで演奏してきている、など、ユニークな活動を
してきた。

10月23日午後、そのオケの第57回定期演奏会を
前回と同じく文京シビックホールで聴いた。

堤俊作さんが亡くなられてからは弦の団員が減るなど
存続が危ぶまれたが、都度、気鋭の指揮者を招き、
活動を継続している。

この日は、初の招聘という中田延亮(なかた のぶあき)
さん。筑波大学医学専門学群在学中に
桐朋学園でもコントラバスと指揮を学び、
2005年から欧州を拠点に旧東欧や南米のオケを振る
などの活動をしてきた人。私も今回初めて知った人。

曲は、

1.ラロ 歌劇「イスの王」序曲
2.ヒンデミット 交響曲「画家マティス」
(休憩)
3.ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 Op.68

アンコール ブラームス ハンガリー舞曲第6番 へ長調

1曲目は初めて聴いたが、豊麗なオーケストレーションで、
とても良い曲。開始ほどなくのクラリネットのソロや、
曲後半でのチェロによる長いソロも、とても上手く演奏していた。

2曲目のヒンデミットは久しぶりに聴いたが、ラロの後だけに、
緻密というよりやや理屈っぽいオーケストレーションという印象。
それでもダイナミクス効果は巧く設定されていて、
ほとんど全ての楽器を演奏できたというヒンデミットならでは
かもしれない。

オケの音では、第3楽章冒頭の弦による重厚な響きが美しく、
音量といい申し分なく素晴らしかった。
また、この曲で第1フルートを受け持った女性奏者の
音色がとてもキレイで、技術も安定していたのが印象的だった。

休憩後はブラームスの交響曲第1番。
私が所属するオケも昨年の12月に演奏した。

第3楽章の熱気、第4楽章の安定感が印象的。
第2楽章のヴァイオリン・ソロも安定していて優秀な演奏。
ただ、楽章全体としては、弦と木管とのブレンドにおいて、
音量的にも、描くフレージング的にも中途半端な印象を
受けた。
丁寧に演奏しようとして流れに停滞感が出ていたように想えた。

それと第1楽章と第2楽章では、第1オーボエ奏者の
音程がやや不安定だったのが気になった。
技術というより、楽器自体に不具合が生じたように想えた。

第1楽章は、アレグロに入ってからが問題で、
力強い部分は良かったが、フレージングの
鮮やかさとか、弱音でも強調するべき部分が
モヤっとしたまま処理された。

具体的には、前者では125小節から127小節において、
126小節から127小節というのはまだクレッシェンドが
続いているのだから、127小節の1拍目の4分音符には
舞い上がる躍動感と、
8分休符(も音楽だ)を挟んでの127小節の2拍目は
書いてなくとも自然と軽いアクセントが付いて然るべしだ
と思うが、中田さんは何事も無い様に普通に進めてしまった。

同様なパターンが398小節から400小節にかけて現れるが、
同様のフレージング処理(表現)が為されて然るべきだった。

後者の例では、157小節と158小節のヴィオラ、
同様のパターンの225小節と226小節のヴィオラとチェロの
それぞれ最初の音にはピアノだがアクセントが付いている
のから、もっと鋭くハッキリと聴こえてよいのに、
ボヤケていた。
なお、430小節と431小節でのヴィオラには
アクセントが無いが、実質上記2つと同じパターンと
言ってよいので、ここでもアクセントがあったほうが好ましい
と思う。

指揮者について
中田さんの指揮は、強調するパートやフレーズに際しては
体を大きく動かし、メリハリのよい、一見ぶっきらぼうで
愚直と言ってもよいほどのタクトだが、
情熱が伝わってきて好感が持てる。
昨今、妙に気取った「振りは巧い指揮者」がやたら多い時代
なので、その分とても個性的に見える。
お辞儀も深々と頭をさげ礼儀正しく懸命さが伝わってくる。
良い指揮者だと思う。

なお、開会に先立つロビー演奏として、
コンマスを中心とした8人が、
ブルッフの弦楽八重奏曲の第1楽章を演奏した。
とても立派だった。

2016年10月22日 (土)

長谷川陽子さん&錦織健さん~チェロと歌のデュエット

長谷川陽子さん&錦織健さん
~チャレンジと遊び心に満ちた愉悦のコラボ

10月22日(土)の午後、
チェロの長谷川陽子さんとテノールの錦織健さん「だけ」の
デュオコンサートを東京オペラシティで聴いた。
ピアニスト無しの、本当に2人だけの異色のコンサートで、
しかもリサイタル(小)ホールではなく、コンサート(大)ホール
なのだが、2人の人気を物語り、ほぼ満員の入りだった。

なお、私は長谷川陽子さんのファンクラブ会員で、会員は皆、
長谷川さんのことを「陽子さん」と呼ばせていただいているので、
以下もそう記します。

曲は以下のとおりだが、8の陽子さん単独ステージのカサド、
9の錦織さん単独ステージでの3曲を除いた、
コラボの曲は全て(松村禎三氏門下の作曲家)柿沼唯さん
による編曲で、これがどれも見事だったことは
最初に言及しておくべきだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ピアノ伴奏が無いから、必然的に陽子さんのチェロが
その役をほぼ全て演じることになる。
「ほぼ」と書いたのは、例外の面白い設定として、
3のホフマンの舟歌と4のビゼーの曲は、
主旋律がチェロ、錦織さんが~例えば3では
「ムン、ム・ムン・ム、~ムン、ム・ムン・ム、~」等、
声による伴奏オブリガート演奏をしたのだった。

これは、この演奏会の企画を知った友人から
「どうせメロディーは全てテナーが歌うだけだろう」
と冷やかされたとき、錦織さんが「そんなこともないよ」と
「応えてしまった」ことによるチャレンジとのこと。
歌い終わると「伴奏がいかに大変か解った」
とコメントされた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5のバッハでは、まず「バッハと言えば」と錦織さんが振り、
陽子さんが(一瞬の間があり)「先日、来日しましたね」、
錦織さん「ボート競技上をづするかとか」と、
IOCのバッハ会長とつなげたのだが、間があったので、
「ボケの打合せを事前にしてあったけど~陽子さんが~
 忘れたのかと焦りました」と会場を笑わせた。

その「G線上のアリア」では、錦織さんが主旋律ながら、
終始「ルー」とスキャットで歌われて、とても印象的だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

例外を除けば、陽子さんのチェロが、ピアノを役を演じる
わけだから、それは大変な作業だ。
もちろん「ピアノの役の代わり」というような消極的意味とは
異なり、弦の重音、低く深い音からハイポジションを駆使し、
ピッツィカートも有効に取り入れた見事な編曲を、
ときにダイナミックに、ときに繊細に等々、様々に弾き分けて
錦織さんをサポートし、あるいは協奏し、複雑にして効率的にして
実に音楽的なオブリガートを創造して演奏した陽子さんは
サスガだった。

そして、前半最後の2曲は、錦織さんの衰えのない美しい声
により、日本語の歌の素晴らしさを実感させてくれるもので、
とりわけ長大な「さとうきび畑」は感銘深いものだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

休憩を挟んでの後半は、まず陽子さんによる単独ステージ
として、有名なチェロ奏者だったカサドが作曲した
無伴奏チェロ組曲を弾いた。
重和音はハイポジション、ハーモニクス(フラジオレット)全開
の難曲大曲だが、とても良い曲で、
陽子さん技巧も冴え渡って見事だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

続いて今度は錦織さんがギターを持って登場し、
3曲を1人のステージとして歌ったのだが、
1曲目の途中から客席通路に下り、
2曲目も3曲目(の途中まで)も、全ての通路を行き来して
会場の聴衆の目の前で歌う、というサービスを披露し、
やんやの大喝采を浴びた。

そして再びデュオとなり、「ふるさと」でしっとり歌った後、
2012年の共演の際に歌い、評判を呼んだという、
「いきものがかり」の「風が吹いている」で楽しさを客席に届け、
アンコールでの「ムーン・リバー」では洒落たポーズで
会場を笑わせながらも、ムーディに歌い、
錦織さん得意のジャズ・ポップナンバーである
「スタンド バイ ミー」で沸かせて、
このユニークで愉悦に満ちたコンサートを終えたのだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ポップス系の歌も大好きで、性格的にも笑わせてくれる錦織さん
ゆえの面白いステージと、それを陽子さんが重音連続の
オブリガートでも格調高く見事に弾いて支えることで、
その対比、融合、展開等が生じ、正に「コラボ」の醍醐味を
味わえる演奏会となった。
今後も継続して欲しいデュオ企画だ。

演奏曲目
1.モーツァルト:ラウラに寄せる夕べの想い
2.スカルラッティ:すみれ
3.オッフェンバック:ホフマンの舟歌
4.ビゼー:「真珠採り」より “耳に残るは君の歌声”
5.J.S.バッハ:G線上のアリア
6.滝廉太郎:荒城の月
7.寺島尚彦:さとうきび畑

 (休憩)

8.チェロ独奏ステージ~カサド:無伴奏チェロ組曲
9.錦織さん単独ステージ
(1)ドニゼッティ 歌劇「ドン・パスクァーレ」より”何というやさしさ”
(2)モドゥーニョ:ヴォラーレ
(3)カプア:オー・ソレ・ミオ
10.岡野貞一:ふるさと
11.いきものがかり:風が吹いている

アンコール
1.マンシーニ ムーン・リバー
2.ベンEキング スタンド バイ ミー
https://www.japanarts.co.jp/system/up_img/inf_det_pdf_484.pdf

2人へのインタビュー
https://www.japanarts.co.jp/news/news.php?id=2211

2016年10月18日 (火)

そして旅に出た~モノガタリとコエカラダと  コーロ・カロス公演 ユニークな合唱オペラ

18日、新国立劇場の中劇場で、
混声合唱団のコーロ・カロスによる合唱オペラ
「そして旅に出た」-モノガタリとコエカラダ-
の公演を観、聴いた。

作は加藤直さん、作曲は寺嶋陸也さん。

振付=山田うん

ピアノ=寺嶋陸也

クラリネット=橋爪恵一

コーロ・カロスは必ずしも毎年単独の定演をしているわけでは
ない。栗友会の演奏会が少なからずあることと関係して
いるのかもしれない。

その中で、創作オペラ、合唱劇・「合唱オペラ」と言われる、
合唱団員主体の音楽劇を、
これまでコーロ・カロスは上演してきている。

1994年
「君の受難曲」(作=佐藤信、作曲=林光)、

1997年
「ヴィヨン 笑う中世」(作=加藤直、作曲=林光)、

2002年
「冬のオペラ 大正二十五年の」(作=加藤直、作曲=林光)

2011年
「アシタノキョウカ-泉鏡花に歌う-」
 (作=加藤直、作曲=林光)

と、今回は5年ぶり上演となるのが、
今回の「そして旅に出た」で、副題として
「モノガタリとコエカラダ」とある。

主人公「おちび」が、大盗賊であった祖父に憧れて、
自分もそうなりたいと旅に出るが、次々と現れる
人物らに行く手を阻まれてもがく、という単純なストーリー。

モノガタリ(言葉)、コエ(歌、音楽)、カラダ(振付)が
有機的に結びついたもので、今回聴く限り、ソロ多いし、
重唱等、アンサンブルも多々あり、
1人1人の力量の高さが問われるが、その点、
コーロ・カロスは申し分ない。
1人1人のクォリティの高さ、合唱能力の高さ。
国内有数の合唱団と言える。
今後益々の活躍、活動を期待したい。

TBS 逃げるは恥だが役に立つ は面白い  ガッキーの魅力全開

ガッキーと石田ゆり子さん~期待できる新番組
 TBS 「逃げるは恥だが役に立つ」

10月11日から放送開始された
新垣結衣さんと石田ゆり子さんという好きな女優さんが
2人出る番組。
星野源 演じる固ぶつプログラマー宅に家事代行で
来たガッキー演じる森山みどりは、大学院卒ながら
正社員になれずに派遣会社で働くも、
それも雇い止めにあい、と事情をもちながらも前向きで
明るいキャラクター。
初回から笑わせてくれるユニークなラブコメディ。

映画「くちびるに歌を」でのほとんど笑わないクールな役とは
マ逆の役を演じるガッキーは見ているだけで元気になる。

そして、これまた質素でクールなイメージのある
石田ゆり子さんはガッキーの伯母役で独身キャリアウーマンを
演じるが、これまたズッコケ感があって面白い。

星野源演じる津﨑平匡が働く会社にも
古田新太演じる面白い上司がいる。

エンディングテーマをその星野源が歌っているのだが、
とても上手いので驚いた。
それが流れるエンディングでの主な出演者によるダンスも面白い。
これまでに無かったテイストの番組に期待。
http://www.tbs.co.jp/NIGEHAJI_tbs/


逃げ恥~好調~今のところ、このクルーの中ではダントツで面白い
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161019-00000084-sph-ent


「逃げ恥」第2話12・1%
ガッキー“恋ダンス”話題で1・9ポイントUP
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161019-00000084-sph-ent
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161019-00000084-sph-ent.view-000

ガッキー主演「逃げ恥」第2話12・1%!
 TBS火ドラ歴代最高
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161019-00000089-spnannex-ent

ガッキーが可愛すぎる「恋ダンス」500万再生突破
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161018-00010000-bfj-ent

「逃げ恥」ナビ
https://www.youtube.com/watch?v=Sbkkb336SYA

「逃げ恥」エンディングの「恋ダンス」フルver.
verhttps://www.youtube.com/watch?v=qvgA332_A9E

出演者たちの素顔に密着! 「逃げ恥」ナビ
https://www.youtube.com/watch?v=ne8h-6qccZ0

2016年10月17日 (月)

ボブ・ディランさんのノーベル文学賞受賞に疑問を持つ人への1つの参考回答

ボブ・ディランの受賞について
 ~違和感を抱く人への1つの参考回答
 ~文学賞=小説賞ではない~

ボブ・ディランさんのノーベル文学賞授与決定の知らせに
驚いたり、疑問を抱いたり、違和感を覚えたりする人は、
たぶんこういうイメージがあるからだろう。いわく、
 「彼はミュージシャンだろう?なぜ文学賞なのだ?」
と。

その人達は、「文学賞」を「ノーベル小説賞」と勘違いしている
から、そう感じるのだ。

14日22時放送のTBS「ニュースキャスター」で、
三雲孝江さんが
 「普段から小説書いている人は釈然としないのでは?」
と発言したのには笑ってしまったが、
彼女のあの発言が、今回「違和感」を覚えた人の
感想をよく言い表していたと想う。

そうした人達には、

「詩は文学じゃないの?
 文学というカテゴリーに入れていいよね?」

と問うなら、納得するだろう。

今回、スウェーデン・アカデミーが高く評価したのは、
ディランさんの「新たな詩的表現」であり、音楽活動
そのもの(それだけ)ということではないのだ。

これは「音楽については軽い意味、ということではない」。
彼にとっては、まず詩があり、それの更なる表現方法
として作曲して自ら歌う、という手段をとった、
ということだ。

ディランは「そういう歌手」だった、ということだ。

今のところ、
当のディランさんとはスウェーデン・アカデミーは連絡が取れず、
ディランさんも、ノーコメトを貫いている。人によっては、
「反体制で来たディランさんだから、
 賞は辞退したほうがいい。そのほうがカッツコイイ」
と言う人もいるが、それはあまり当を得ていない。

特定の国家が授与するのならそれも言えるが、
スウェーデン・アカデミーは国家ではない。というより、
もっと言えば、ディランが受賞を拒否しようが実はどうでもよい。

世俗的ではあれ「歴史と権威ある第三者」である
スウェーデン・アカデミーがディランの「詩」を認めたこと、
それが重要なのであって、仮にディランさんが
ノーコメントのままでも全く構わない。

それで彼の名誉が無くなるわけではないからだ。
泉谷しげるさんが「この違和感こそ最高!」と言ったが、
 逆説的な意味で、けだし核心を突いているとも言える。


なお、デビューはほぼ同時期だったビートルズも
2人ではなく4人が存命中だったら有力候補だと想える。

ただ、ビートルズはディランが社会的なメッセージを
既に発した1963年のころは、もっぱら男女の恋を歌い、
いわば「受ける」ことを前提とした作曲をし、
実際、ある意味ディラン以上の、特に女性に
大衆的熱狂をもって迎えられたのだが、
後年のおそらくディランの影響を受けたと想える
「ELEANOR RIGBY」、あるいは解散直前のリリース
となった「LET IT BE」や、
「THE LONG AND WINDING ROAD」が、もしその3曲が、
ディランの「風に吹かれて」と同じ時期に出ていたら、
そして4人が存命なら、
ビートルズが先に受賞してもおかしくはなかったと思う。

プロ野球のクライマックスシリーズはナンセンス

プロ野球~今頃ですが、なんで複雑に?

以前は、セ・パそれぞれでリーグ優勝したチームが
日本シリーズで戦ったが、
今は「クライマックスシリーズ」とかいうワケのわからない
システムになっているんですね。

リーグで2位、3位だったチームにも日本シリーズ
出場可能性がある、なんてオカシイと思う。

やはり昔は無かったリーグトーナメント時の
「セパ交流戦」は大賛成だけれども。

多く長く野球を楽しめて良い、という人がいるが、違う。
潔くない。

各チーム、まずリーグ優勝を目指して戦っているわけでしょ。

リーグで優勝して日本一になろう、と戦ってきたはず。

リーグでは2位か3位でいいけど、日本シリーズ出場を
勝ち取ろう、ということができてしまうシステムはおかしい。
ナンセンスだ。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6217708

とと姉ちゃんが終わった

とと姉ちゃんが撮影終了したとのこと。
では、比較的最近のことを振りかえろう。

とと姉ちゃん、星野との再会
~物語のない人生はオペラにならない

とと姉ちゃんと、今は二児の父で妻には先立たれている星野との
再開シーンは、互いの感情の機微が出ていて良かった。
せつない過去を互いに共有した2人だけが感じる感情の存在。

以下は私の勝手な考えに過ぎないので反発には及ばないが、
順風満帆に生き、結婚し、云々というハッピーなだけの人生
には「物語」を感じない。

失恋や難しい状況にある、あるいはそういう道を歩いてきた人
にこそ何倍も物語を感じるし、オペラになるのは後者だ。
順風満帆で幸福な人生はオペラにならない。

もちろん、平凡で普通の生活、人生こそが大切だ、
というのも真実だと思う。

特に1990年代以降のこの20数年は日本においても
普通に平凡に生きることさえ難しい状況が多々生じている。
一市民としては平凡さ、普通の生活、とりわけ順風満帆なら
尚更それ越したことは無い。

しかし、こと「物語」としては、恋愛や家族や友人との関係、
仕事や何やの生活環境や抱いている感情において、
容易ならざる状況にある、そうした要素がある状況こそ
「物語」が存在し、オペラになる、と想う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160818-00000077-spnannex-ent


 星野さんロス そして高畑充希賛

ここ数年の朝ドラで個人的に不満だったのは、
ヒロインがいとも簡単に結婚してしまうことだった。
むろんそこから物語はどんどん進展していく設定で、
いわば結婚に至るドラマは無視あるいはさほど重要視されない
設定で、それはそれで「あり」だが、個人的には物足りない
というか、ある種の「シラケ」「興ざめ感」は拭えないできた。

しかし、「とと姉ちゃん」での高畑充希さん演じる常子と星野
の関係は、朝ドラとしては久々の心理的に濃厚な恋愛物語
となっていて素敵だった。

全国的にも坂口健太郎演じる星野が人気だそうで、
名古屋に転勤のため出演しなくなったここ数日は、
全国的に「星野ロス」が生じているという。

それはさておき、以下は、「とと姉ちゃん」ではなく、
杏さんが主演した「ごちそうさん」の125話で高畑充希さんが
「蘇州夜曲」を歌ったシーン。
なにか しっとりして、いい感じです。
じっくり聴き入ってしまいます。
https://www.youtube.com/watch?v=L1oxQ4jgFy8


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 追記

とと姉ちゃんの放送が先日終わった。
今世紀に入っての朝ドラで歴代3位の高視聴率で終了。
 めでたい。
「とと姉ちゃん」の年平均視聴率は22.8%で、
今世紀の朝ドラの年平均視聴率としては前作「あさが来た」
の23.5%、2002年前期「さくら」の23.3%に続き 3位。

「花子とアン」と01年後期「ほんまもん」の22.6%を上回った。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161003-00000083-spnannex-ent

お疲れ様でした!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161003-00000005-mantan-ent.view-000


とと姉ちゃん 主題歌「花束を君に」by 宇多田ヒカル
出だしからとても良い曲。宇多田さんの声や歌い回しも、
以前の様な、あるいは、いつもの感じのハスキーで哀愁のある
 ~でも少し意地悪に言うと~キザな歌い方という歌い方は
しておらず、この歌では、自然で素朴さを大事にして
歌っている感じがして、良い意味で意外なまでに素敵だ。
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00101/v12399/v0871400000000543382/

宇多田ヒカル - Flavor Of Life -Ballad Version-
https://www.youtube.com/watch?v=3Ta0vEnki9E

2016年10月16日 (日)

電通ブラック企業としての~若い社員の過労死自殺問題を考える~残業文化の払拭が大事

残業文化大国ニッポン
しかし残業を認めない社長も世の中にいます

まずは、敢えて感情的に、激昂して書く。

 ブラック企業は日本から去れ!
 母子家庭で、頑張って東大に入り、期待して電通に
 入ったであろう、若い女性の自死をムダにするな!

 「鬼十則」とは笑止千万。若い従業員を自殺に追い込んで
  何が有名大企業だ。とんだお笑い草だ。


まず、ニュースとして
広告大手、電通の当時入社2年目、24歳の女性社員が
昨年末に過労自殺し、労災認定されたことを受け、
東京労働局と三田労働基準監督署は14日午後、
労働基準法違反の疑いで電通の本社(東京都港区)と
支社数カ所に一斉に立ち入り調査に入った。

労災認定を受けたのは、入社1年目だった高橋まつりさん。
昨年12月25日、都内の電通の女子寮で自殺した。
三田労基署は「仕事量が著しく増加し、時間外労働も
大幅に増える状況になった」と認め、先月30日に労災認定した。

三田労基署は、高橋さんの1カ月
 (昨年10月9日~11月7日)の時間外労働を
約105時間と認定している。


 次に論じる。

昔も今も、多くの会社(大小、業態を問わず)に「ありがち」なのは、
 「こんなに残業をやって頑張ってます。凄いでしょ。
  仕事できるでしょ」という社員の心理の存在と、

経営者や幹部上司でも
 「社員が残業を厭わず「長時間」仕事をするのは当然だ。
  それが社員の「義務」だ。特に若いうちはそれが大事だ。
  そういう社員こそ評価する。何が労働法だ。何が労基署だ」
とする人が多いことだ。

これだけ、IT化が進み、在宅勤務云々という議論(既に取り入れて
いる企業もある)、あると言うのに、多くの企業では
 「風土や文化が昔から何も変わっていない」と想像できる。

先述のように、特に若い写真が「頑張る」のは自然ではあるが、
「慣れて来る」と、そして特に年俸制ではなく、
残業代が発生する給与体系の会社だと、
「残業の必要が無いのに、残業代を得ようという目的の
ために残業という名の仕事をしているフリをする」社員は
昔も少なからずいた。

ところで、私は幸か不幸か転職を数回している。
複数の会社の事例を知っているが、過去、1人だけ、
とても「変わった?ユニークな?」経営者、いや、
見事な経営者がいた。

その社長は社員に基本的に残業を認めなかった。
9時~18時の就業時間(定時)の会社だが、
20時以降に会社にいることを許さなかった。

どうしてもやむを得ない場合は、事前に申請して認めらて
初めて20時以降も残業が許される、という徹底ぶりだった。

最近、小池都知事が都職員に仕事は20時をメドとすることを
伝えたようだが、その社長に言わせたら「何を今更」
ということこだろう。

その社長の言い分はこうだ。

 「残業をする、というのは能力が無いからだ」

先述の「残業して頑張ってます。凄いでしょ。仕事できるでしょ」
とはマ逆の発想だ。
そういう経営者も「ごく稀だが」皆無ではない。

そういえば、今は引退(退任)されているが、
女性下着のトリンプ・インターナショナルの吉越浩一郎さんは
「残業ゼロの仕事力」、「ムダな仕事はやめよう」と
在任中から力説され、同社内で実践してきたことを
知っている人も多いだろう。


ところで、「残業は能力が無い証拠」は、入社2年目で自殺した
電通社員 高橋まつりさんには当てはまらないと想像する。

想像の域を出ないことを百も承知で書くが、睡眠時間さえ
ろくに取れずに悩んで自殺に追い込まれるほどの仕事は
「本当は必要ないもの」だった。
上司が、競争を煽る目的か、「しごく」目的か、
「凄い会社」だと自分を思いこませ部下も思いこませるために、
「忙しい量を持ちこんだ」、という、
要するに「上司の管理監督能力の無さ」が原因だろう。

まつりさんは「お前の残業はムダ」と罵倒されながら、
そうした残業をさせた「上司の無能さ」の表れこそ、
「不要な残業地獄の原因」である。
ほとんど基本的なことはこ大筋で間違いないと確信する。


話を変えて、ご家族だけでなく、ニュースを知った誰もが
「自殺などしないで欲しかった」と残念に思うだろうし、
中には「苦しいなら退職すればよかっただろうに」と思う人も
少なくないだろう。

もちろん、「逃げて」欲しかったが、
「そこに思いが至らぬほど精神的に追い込まれ」、
うつ的な正常な感覚とは違うところに行くほど追い込まれて
いたのだろうから、軽々しい言動では慎まねばならない。

ところが、武蔵野大学の長谷川秀夫教授が
「残業時間が100時間を超えたくらいで、過労死するのは
 情けない。自分が請け負った仕事をプロとして完遂する
 という強い意識があれば、残業時間など関係ない」
というトンチンカンな事を書き込み、

「そういう人間がいるから過労死がなくならないのだ」
という厳しいバッシングを受け、大学からも処分を受けたよう
だが、そういう「自分の感覚だけが絶対の真実」として、
それを他者(の境遇)に当てはめようとする考えは論外
である。

もっとも長谷川氏は、
「プロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を
 出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。
 それでも駄目なら、その会社が組織として機能していない
 ので、転職を考えるべき。
 また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を
 続けるべき」
とも述べており、それは先述のとおり、
多くが感じるところではあるが、
「自殺した本人へを想いやるという想像力、
 何よりまず同情し、悼む、原因を根本のところから考える」
ことが欠落していたのが、それこそいい大人が、
大学教授ともあろうものが「情けない」と言えるだろう。

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 追記
多くの企業もそうしているのでは?~
 ~電通の残業隠し=過少申告指導
電通の社員は勤務表=始業と終業の時間をパソコン入力
して自己申告し、上司が承認する。
申告に基づく高橋まつりさんの残業は、自殺する直前の
昨年10月が「69・9時間」、同11月が「69・5時間」で、
労働組合との取り決め上限である「70時間」のぎりぎりで
記載されていた。

しかし、遺族側弁護士が、自動的に記録される入退館ゲート
のデータを基に集計した残業は、月に130時間を超えることが
あった。
弁護士は「残業が70時間を超えると、正確に申告がなされなく
なっていた。指導があったとみられる」と指摘。

~多くの企業で「ありがち」なことですね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161021-00000093-san-soci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161021-00000093-san-soci.view-000


 追記
電通子会社にも立ち入り調査 過労自殺問題で労働局
外見(自社ビル)が立派でも中身(コンプライアンス体制)が
ダメなら意味が無い。 人間と同じ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161018-00000030-asahi-soci

2016年10月14日 (金)

映画 THE BEATLES~EIGHT DAYS A WEEK~THE TOURING YEARS

圧巻、圧倒的なドキュメンタリー映画。
一度観たら一生忘れられないフィルムとなるだろう。
ぜひ観賞をお薦めする。

英国の田舎街に生まれた若者4人が世界を熱狂させたかが
如実にリアルに判る見事なドキュメンタリー。
 
 「ビートルズの前にビートルズなし。
  ビートルズの後にビートルズのなし」を実感した。

以前、フェイスブックの「クラシックを聴こう!」サイトで
「クラシックとは何か?」を敢えて問うた投稿者に対して
色々と書かせていただいたが、
その中で私はビートルズについても触れ、
「ビートルズはロックでもクラシックでもポップスでもなく、
 いわば「ビートルズ」という独自のジャンルを創って
 しまった、そういう偉大な存在」
と書いたが、それもあらためて今回実感した。

ライブが近いアンブルでカラーで観れる。
まるで、特等席にいるかのようだ。
既出のフィルムではボーカルが中心とならざるをえないから、
リンゴ・スターをアップしたショットは必ずも多くないと
思うが、このドキュメンタリーではリンゴも何度もアップ
されるので、
リンゴのドラムさばきが如何に見事かを初めて実感した気がする。
圧巻のドラムさばきに魅了される。

1962年「LOVE ME DO」でデビュー。
「SHE LOVES YOU」と「I WANA HOLD YOUR HAND」で
英国内だけでなく人気は決定的になり、
1964年「I WANA HOLD YOUR HAND」が米国の
ヒットチャートで初の1位。
続いて「A HARD DAY’S NIGHT」で圧倒的な人気を獲得。
同年アメリカを訪問し、各地で熱狂的に迎えられる。

アメリカでは折しも黒人による国民権運動が活発化しており、
南部のゲイターボール公演で、白人と黒人とが分けられる
人種隔離による会場とされることを4人が事前に知ると、
 「ナンセンスだ。英国に人種隔離は存在しないよ。
  ゲイターボールには行かない」と拒否。
結局会場側が折れ、同地では初めて隔離の無い、
差別の無いコンサート会場としてビートルズが乗り込んだ
のだった。

1965年に入ると多忙さからメンバーに微妙な心理的葛藤も
生じ始めるが、「HELP」で1つの解決を見る。
この「HELP」を歌うジョン・レノンの映像が素晴らしく、
先述のリンゴのドラムさばきとともに、
「男が男に惚れる瞬間」を感じる。

この年、2回目のアメリカ訪問で、特に8月、
ニューヨークの6万5千人収容の巨大なシェイ・スタジアム
でのコンサートシーンが圧巻だ。
みな一生懸命に歌っているが、若い女性を中心に
歓声が凄まじいので、彼らの歌声は客席には
ほとんど届いていないのでは、と想像できる。

コンサート後、ジョン・レノンは 「こんなの、もうウンザリだ」
と語ったという。それでも、
「ジェームズ・ディーンはたった1人でこうした状況や
 感情に直面しただろうが、僕らは4人いたから、
 やるせなさ等の気持ちを共有できた」
と4人は思ったという。

1966年に入ると、メンバーそれぞれが家庭を持ったこと
から、ビートルズそのものに対するアプローチに、
それぞれが微妙な変化をもたらす。

そして、ジョン・レノンの「僕たちはキリストより有名」
という発言がきっかけで、あろうことか、
前年あれだけ熱狂したアメリカ国内に猛反発が起きる。
その年の全米ツァーは、実際、身の危険を4人が感じた
という。

それでも、事前に4人は誠意をもって釈明する。
 ジョンは言う。
「イギリス国内での教会離れを思って言ったことだし、
 キリストより 「偉大」だ、とは言っていない」、と。

不安の中のアメリカツァーで最後の公演を終えると、
大きな護送車で会場を去るとき、
ジョンは「誰も歌を聴いてない。僕らを「見たい」だけで
 騒いでいる。こんなのはもうゴメンだ」と。
そしてこれがアメリカでの、いや、世界での
最後のライブ公演となった。

1967年以降、彼らはスタジオでの録音等に専念する。
それを決断したとき、例えばグレン・グールドと同じように
「コンサート(ライブ)は死んだ」と思ったかどうかは
判らないが。

いずれにしても、解散直前の1969年1月30日の、
アップル社屋上でのゲリラライブを唯一の例外として、
4人がいっしょに演奏者として観客、聴衆の前に立つことは
以後無かった。

映画の最後(と誰もが思う)に、出演者や製作関係者
らの字幕が流れる中、1963年クリスマスに録音された
という4人それぞれ1人ずつが、
「良い年だった」等、1年を振り返るメッセージが流れる。

 だが、ここで席を立ち劇場から出ないこと。

 最後に「とんでもないオマケ」が付いて来る。

本編でも一部映し出された、1965年8月のニューヨーク、
シェイ・スタジアムでのコンサートの模様が、
なんと全曲放映されるのだ。

実際の現場では、歓声、泣き叫ぶ女性らの声で、
演奏はほとんど聞こえなかったと想像できるし、
何よりそれは特設ステージ上の4人も同じだったのだが
 ~リンゴは、
 「ポールやジョージの尻の振り具合を見ながらドラムを
  叩いていた」と述べた~このラストシーンでの
「ライブ演奏」は、後年スタジオでの録音等、
編集により、映画を観ている人、全てに歌声が届くかたちで
描かれる。

すなわち、映画を観ている人らは、ステージの至近席、
目の前という特等席でライブを楽しめる、という
凄いラストが来るのだ。

4人は、いくらマイクによる音響があるとはいえ、
それはこんにちほどの規模でも性能でもなかったゆえ、
客席に自分たちの歌声がほとんど届いていないことを
知りながら、それでも皆汗だくになりながら懸命に歌い、
ギターを弾き、ドラムを叩くシーンは、
せつなくなるくらい感動的である。

最後に映画館に来た人々のための
最高のステージが待っていたのだ。

映画全体を振り返って
作曲家のハワード・グッドールは言う。
「シューベルトは800曲創ったが美しい曲は100曲。
 あとは「いい曲」だ。全ての作品が凄いという点では、
 唯一モーツァルトと比較できるだろう。
 モーツァルトから数百年経ってビートルズが登場したのだ。
 ビートルズの創造的価値はモーツァルトに決して負けない」
と。

言及の適性は問わないが、ビートルズが偉大な存在であることは
絶対的な真実だ。

そう言えば、
「ROLL OVER BEETHOVEN(ベートーヴェンをぶっとばせ)」
というタイトルを私が初めて知ったのは中学生のときで、
その時は「反発」を感じたのだが、考えてみれば、
彼らビートルズさえ、「ベートーヴェンを意識せざるを
得なかった。勝ちたいと思った」という点で、
むしろベートーヴェンにとっても名前を使われたのは
名誉なことかもしれないし、クラシックを意識し、
クラシックにケンカを売ろうとしたとしたら、
クラシックにとっても名誉なことだったかもしれない。


しかし、そうであっても、実際の彼らはいたって謙虚で素直だ。

「なぜ人々は熱狂するのか?」と問われ
「解らないよ。それが解ったら、他のグループを
 マネジメントする(他人を使って儲ける)ね」、と笑わす。

「ぼくらの現象が文化だって?いや違うだろう」。
「反逆的、反体制的音楽だって?
 僕らの音楽が?(違うでしょ)」

1965年以降、メディアからの「偉そうにしている」という
意地悪な質問、バッシングに対しても「していない」と
自然に正当に答えている。

このフィルムでは、後年のエプスタインの死や、
オノ・ヨーコのことが出てこない点は良かった。
特に後者など出ようものなら最悪だ。
そうした4人以外の個別の件は全て排除されている。

また、このフィルムで唯一不満があるとしたら、
「YESTERDAY」や「AND I LOVE HER」などの
バラード系がほとんど出てこないことと、
1965年以前の作品が中心になるので、後年の
「HEY JUDE」「LET IT BE」
「THE LONG AND WINDING ROAD」などを歌うシーンが
無いことだが、しかしそれでも、
登場する歌で十分満足できる迫力と魅力に満ちている。

当時あのシェア・スタジアムにいたこと(人達)が
幸せなのか、時代的にも地理的にもあの場にいなかったことが
よいのか、こうして振りかえってVTRでじっくり熱演と
「時代」を確認できるほうが喜びなのかどうか、
ということは解らない。

クラシックに、あのような熱狂は要らないことは解る。
しかし、それでもある種の羨ましさ~それは彼らに
ついてだけでなく、「熱かった時代」への羨望
でもある~を禁じえない。
http://thebeatles-eightdaysaweek.jp/

2016年10月13日 (木)

ボブ・ディランさんのノーベル文学賞受賞を喜ぶ

ノーベル賞にはあまり関心無いが、
ボブ・ディランさんの文学賞受賞には胸熱いものを感じる。

選考委員会も粋なことをするなあ、と思う。

私より上の世代、学生運動が世界を席巻した世代に
とって国際的なスターだった。

彼の「風にふかれて」をニューヨークでもパリでも東京でも
ロンドンでもどこでも多くの若者たちが口ずさんだ。

デビューはビートルズとほぼ同時期ながら、
単に恋の歌ではなく、社会性を帯びたメッセージという点では、
ビートルズに先んじて、歌の力が音楽が持つ力が
世界を連帯させ、世界を変えるかもしれない、
そう想わせた最初のスターだったし、彼の存在が、
後にビートルズの変化をもたらさたかもしれないとも言える。


  「風にふかれて」

人はどれ位の道を歩めば 人として認められるのか
白い鳩はどれ位海を乗り越えれば 砂浜で休むことができるのか
どれ位の砲弾が飛び交えば 永久に禁止されるのか
友よ答えは風に吹かれて 風に吹かれている
https://www.youtube.com/watch?v=vWwgrjjIMXA
https://www.youtube.com/watch?v=G58XWF6B3AA
https://www.youtube.com/watch?v=ECts2eyqAsQ

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
How many times must the cannon bolls fly
Betore they’re forever banned?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind

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参考

 学生街の喫茶店~「片隅で聴いていた ボブ・ディラン」

君とよくこの店に来たものさ 訳もなく お茶を飲み話したよ
学生でにぎやかな この店の 片隅で聴いていた ボブ・ディラン
あの時の歌は聴こえない 人の姿も変わったよ 時は流れた
https://www.youtube.com/watch?v=AbPL8KdXojg

2016年10月10日 (月)

ウェールズ弦楽四重奏団 演奏会

若い奏者たちによる弦楽四重奏団、
ウェールズ弦楽四重奏団の演奏を第一生命ホールで聴いた。

きっかけは、神奈川フィルのコンサートマスターで
ウェールズ四重奏団第1ヴァイオリン奏者の﨑谷先生に、
5月から6月にかけて、所属するオケの特に弦パートの練習を
みていただき、とても勉強になったことによる。

また、私は神奈川フィルはコンサートも聴いているが、
特に神奈川県民ホールでのオペラをたびたび聴いていて、
その実力に魅了されている。

﨑谷さんは若くしてその神奈川フィルのコンマスの1人に選ばれ
活躍されているほか、桐朋学園大学時代から
ウェールズ弦楽四重唱団を結成し、10周年を迎えた今年、
第一生命ホールの開設15周年記念演奏会の一環として出演
され、美しく純度の高い演奏を披露してくれた。

演奏曲は

1シューベルト 弦楽四重奏曲 第13番 イ短調「ロザムンデ」D804

2ベートーヴェン 弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調 Op.127

いずれも1824年に完成され、
シュパインツィヒ弦楽四重奏団によって初演された。

1で感じた点は、
(1)第1楽章~繊細でノーブルな音楽を創り出す。
(2)第2楽章~有名な「ロザムンデ」の旋律を用いての楽章は、
  以外にも速めのテンポで、ヴィブラートを抑えた
  アッサリ系の演奏だった。
(3)第3楽章~各楽器が受け持つ旋律の特性がキチンと描かれた
  丹念な演奏。
(4)第4楽章~流動感の中、常に気品を保ちながらの演奏。

2は、特に第2楽章から第4楽章にかけて非常に個性的な
ユニークな作品。
転調やリズムの変化、曲想の変化など随所で高度な作曲技法が
散りばめられている。
一見、「やわらかなイメージ」な曲だが、実際は相当に「堅固な」
作品だと思う。

その2で感じた点は、
(1)第1楽章の冒頭のマエストーゾは重厚感ではなく、
  柔らかく上品なアプローチでの開始。
  ただ、第1主題はもう少し音量を増して演奏しても
  よかっかと思う。
(2)第2楽章~この曲全体の核となる重要な楽章。
  内省的で和音の移ろいへの集中は更に徹底され、
  しかしそれだけではなく、移ろいの変化を着実に示した
  繊細で美しい演奏。純度の濃さが印象的な演奏。
(3)第3楽章~スケルツォの特性をしっかり出した演奏。
(4)第4楽章~曲全体の中でもとりわけユニークな楽章を、
  場面々々で描かれるキャラクターの違いを明瞭に
  示しながら、それでいて常に気品を保ちながらの演奏。

アンコールでは、なんと、バッハの「マタイ受難曲」より
第44曲「我が道、汝が心」の演奏。
この選曲と静謐な真摯な演奏自体、
このクァルテットの特性、個性を象徴しているようでもある。

プログラムに氏が書いているように、
若者たちによる演奏というイメージとは違う、
とても成熟な音楽つくり、という印象を誰もが感じるはず。

4人が常に美しい響きの推移を確認しながら進めていく、
という感じで、渡辺 和氏も書いているとおり、
それが正しいかどうかは判らないが、彼らにとって、
そのアプローチが正しいとかどうかでなく、
「自分たちはこう演奏したいんです」ということが明瞭に、
非常によく伝わる演奏。
美意識への徹底した拘(こだわ)りとでも言う様な。

今後も年1回は継続して活動を続けていくようなので、
どう「展開」していくか、楽しみだ。

2016年10月 9日 (日)

ザッツ管弦楽団 第15回演奏会

ザッツ管弦楽団~コンマスによるブルッフソロ&マーラー交響曲第6番
チラシ(フライヤー)で見た同団のプログラムに、マーラーの交響曲第6番があったので、でかけた。
よって初めて聴くオケ。
2001年に行われた都立駒場高校百周年記念プレコンサートをきっかけに、翌2002年に発足し、今回第15回目の演奏会とのこと。
指揮は田部井剛氏。

1つ余計なことを言うと、指揮者の紹介に1ページまるまる割くプログラムは珍しい。
オケのことは少ししか書かれていないのと対照的だ。
聴衆はむしろオケのことを知りたいはず。
これだとまるで、田部井さんがお金を出して創設したオケのオーナー指揮者みたいな印象を受ける。

あと今度は好意的な点として触れると、トラ(エキストラ=賛助出演者)が少ないこと。
マーラーの6番があるから、金管、木管に多少いるが、それでもトロンボーン4人全員が正団員。パーカスも1人だけが賛助で5人正団員。
弦はもっと顕著で、ヴァイオリンは今回出演の30人中2名がトラ、コントラバスは8人中1名だけがトラ。ヴィオラ14人とチェロ13人は全員正団員だ。

昨今、弦でも賛助に頼らざるを得ないアマオケが増えているので、そうしたオケからしたら、さぞ羨ましいことだろう。

さて、今回の演目で面白いのは、
1曲目のブルッフのヴァイオリン協奏曲を、同団コンサートミストレスの佐藤舞さんがソリストを務めたことだ。
プロはともかく、アマオケでコンチェルトのソロをコンマスが~それも音大卒ではない人が~定期演奏会で弾くというのはあまり例が無いと想う。

プロフィールによると、佐藤さんは5歳でヴァイオリンを始め、その後、名倉淑子さんら計6人に師事している。2002年青山学院大学に入学し、同学生オケに入団。3年次にコンマス。
卒業後は、このザッツ管弦楽団に入り、翌年からコンマスを務めてきている。
その他、室内アンサンブルや弦楽四重奏の活動もされている、とのこと。


 ブルッフ ヴァイオリン協奏曲

音程的には抜群で、1カ所問題があったり、やや怪しい個所も少しだけあったが、逆に言えば、30分を要する曲の中でその程度ということは、ほとんど完璧に弾いた、とうこと。

同じアマオケ活動者としてのエール的観点で言えば、
それは非情に立派だし、同オケの水準を大きくアップさせた功労者と団の誰もが認めるというから、第15回演奏会という記念演奏会的企画とはいえ、「コンマスをソリストとして演奏会を」とした同団の決定と実践は素敵だし、これだけ弾ける人がコンマスでいることの頼もしさと信頼を内外にPRした点でも素晴らしいことだったと思う。

ただ、一般聴衆からするとそれは関心外のことと言えなくもない。
特に同団と関係ない人には、良い音楽を聴かせてくれる(くれた)かどうかが唯一の問題となろう。

聴衆がアマチュアの演奏を聴く際、何を求めるか?は人それぞれだろうし、プロ、アマを区別することをしないとするスタンスも当然「あり」だろうが、
もし、敢えてアマチュアに求めるとしたら、それは技術的完成度というより、曲に対する熱い思いだったり、心情の直截的な吐露、発露、表現、ということではないだろうか?

多少、技術的に稚拙さがあっても、音楽そのものに対する思いの表出が聴けることを楽しみとしてアマチュアによる音楽を聴こうとする場合が多いのではないか?と想像する。

その観点から言うと、今回の佐藤さんのブルッフについて、技術的完成度を問われたら、私は「とても立派だった」と答えるが、熱い思いが伝わる演奏だったか?と問われると、私は「No」と答える。

音量が小さいのはやむを得ない。プロの特に有名な奏者ほど「良い楽器」を使っているから、音自体が豊麗だし、それと比べてもしょうがない。

でも、曲想に関して、強い思いをぶつけて、それを表現して聴衆に届ける、という点では「プロもアマもない。同じ」である。

この点、私は正直物足りなかった。
第1楽章は表現も良かったが、第2楽章での感情表現が弱い。
1例を上げるなら、練習記号Hの6小節目=118小節と119小節のそれぞれ3拍目からのソーミー、ソッソレーのGの音はフォルテシモなのに、音量というよりパッションが弱い。何も伝わってこない。

第3楽章は第1主題は良かったが、練習記号Eから12小節目=115小節以降のあの情熱的な第2主題では、曲想に対する熱い思い入れが伝わってこない。パッションが感じられない。

要するに正確に丁寧に弾こうとすることだけに集中している範囲に留まっていた演奏だったのだ。

「アマチュア奏者に厳しいことを言い過ぎではないか?」と思うかたもいるだろうが、仮にも演奏会でソリストを務めて聴衆に披露するのだから、プロと同じ土俵で感想を論じないと、かえって失礼だし、アマチュアだからとお世辞だけ言うなら意味がない。


 マーラーの交響曲第6番

冒頭から良い意味でオーソドックスなテンポ。
全楽章そうだった。
それと、オケの配置は昨今流行りの対抗配置ではなく、チェロを内、ヴィオラを外の通常配置による演奏で、これも好ましい。
対抗配置のどこが良いか疑問だし、マーラーの場合は特にコントラバスは指揮者から見て右手の通常配置のほうが良いと思う。

もう1点は、よく問題となる第2楽章と第3楽章の配置の点で、この演奏ではスケルツォを第2楽章、アンダンテ モデラートを第3楽章とした演奏で、これも賛成。
それは第1楽章の力動感が第2楽章のスケルツォに連動していく感がして、有機的に想えるからだ。その逆の第2楽章にアンダンテ、第3楽章にスケルツォにした演奏だと、構成的に=演奏の推移的に、一貫性が弱まり、説得力が劣ってしまうように想えるからだ。

弦は全ての楽章で抜群の演奏を示した。
管やパーカスはよく演奏していた。終楽章になると金管に疲労感が出たのか、割れがちになり精度をやや欠いていたが、第1楽章から第3楽章まではとても充実した演奏だった。

第1楽章と第4楽章のカウベル(ヘルデングロッケン)はいずれも音が弱過ぎた。もう少し大きめな音量のほうが良かったと思う。

地獄のような曲想の長い終楽章も各パートはよく頑張っていて熱演だったと思う。

なので、以下は演奏のことではなく、第4楽章の曲自体について考えたこと。

第1楽章から第3楽章までが大規模ながら形としては古典的にまとまった楽章であるのと対照的に、この終楽章は、圧倒的な、劇的で狂気じみた性質を帯び、ベートーヴェンの第九とは違う意味で「終楽章のみまるで異次元の、別世界の音楽」となっている。

この凄絶な終楽章はオーケストレーションの1つの極致なのだろうけれど、「悲劇的」という内面に最初は思いが行くが、しかし、マーラーが複雑にすればするほど、むしろ技巧に走って書いている気がしてくる。そういう意味では、大響音なのに気持ちがはぐらかされたり、ついて行けずに途中で「退屈感」さえ覚えてくる気さえする。

この終楽章は色々な意味で悪魔的であり、ある意味「音楽自体に対する挑戦的、挑発的な仕掛け音楽」とでも言いたくなる。

とはいえ、とりわけアマオケがこの曲に挑む姿勢は実に果敢だし、素晴らしいし、羨ましいことでもある。
終わってからの、拍手が起きるまでの場内の長い長い沈黙も良かった。
熱演、お疲れ様でした。
http://satzorc.web.fc2.com/

2016年10月 6日 (木)

この半年で観た映画 その21

4月14日に、この半年で観た映画 その20として、
2015年10月~2016年3月に劇場やDVDで観た
映画の感想を書いたのに続き、
それ以降=2016年4月~2016年9月に観た映画の
感想を、シリーズの21として感想を記したい。
なお、これまで同様、既に単独でブログに書いたものは
「○月○日のブログに記載のとおり」、とだけにしたい。

2016年10月 1日 (土)

稲田朋美防衛大臣を涙ぐませた辻元清美さんはサスガ

「愛国心はその程度ですか?」
稲田朋美防衛大臣を涙ぐませた辻元清美さん
~女対女の凄さ~女は丸めこまれない~女に「なあなあ」は無い

小池都知事を見ていると、群れない強さ、「なあなあの無い強さ」を感じる。
女は男より丸めこまれない強さが有る。
男は総じてダラしがない。徒党を組みたがり、長いモノに巻かれたがる。
女はイザとなったら、いや、基本的に女は「丸めこまれない強さを持っている」。そう強く感じる。

そして30日の国会論戦。
論客の民進党の辻元清美さんが、稲田防衛大臣を強く詰問した。まず、

 「あなたは5年前に月間誌で核保有論を述べている。
  これは国是と違う。撤回されたほうがいい。
  なぜ撤回しない?
  これは 「あなたのため」 に言ってるんですよ」

そして、

 「8月15日の全国戦没者追悼式典に防衛大臣として
  欠席したのはあなたが初めてですよ。
  なぜ急にアフリカに行ったんですか?
  そんなに急に行く必要がありましたか?
  あなたの「戦争でなくなった方々へ心をささげる、
  というのは、その程度だったのか?」
  と思われかねない。
  「国への思い」はその程度だったんですか?」

この最後のフレーズは、国粋主義者として
最も言われたくないフレーズだっただろうことは、
続く答弁で悔しさからか、涙ぐみながら、
 「批判はそのままお受けします」
と回答したことに表れていた。

いつもは偉そうな稲田朋美はザマア無い。
彼女をギャフンと言わせ、泣かせてしまうとは、
さすが辻元さんだ。

http://www.sankei.com/politics/news/160930/plt1609300035-n1.html
http://news.livedoor.com/article/detail/12086148/

豊洲の盛り土なし問題は単純な真相と構造

豊洲問題~「盛り土はしない」という決定経緯は単純なことだ。
小池都知事は「いつ、誰が」の点は、ピンポイントとしては把握し難いと述べた。誰かをかばうというより(そんな事をしたら彼女の落ち度になる)、いかにも縦社会組織のワケのわからないうちに物事が進行するこの国を象徴している事態と言える。しかし、実は事はそれほど複雑ではない。

以下は会社務めをしている人間には簡単に理解できるはずだ。まず、

A.市場課や「どこかの関係部署」のナンバー2か3くらいの、従って部課長あるいは係長クラスが「盛り土はやめて、空洞でいきましょう。カネもかかりそうもないし、面倒さが省かれるし、後々「何か」に使えるだろうし、地下水は「だいぶ」キレイになったでしょから「問題無い」でしょう」という「たたき台」=「仮案」を作る。あくまでもこの段階では「仮案」だ。

B.この仮案について「複数の関係チームの全てにおいて」、「あ、これで行くんだな。「上」で決定したことなのだろうから、盛り土はしないんですか?などと質問する必要も無いな。俺が「そんな余計な事」を質問しても煙たかれるだけだろうし」と誰も質問しない。よって、

C.いつの間にか1人か2人の中間管理職が「勝手に考えた盛り土はしないという仮案」が既成事実=決定事項となって進んでいく。

D.加えて市場長も、都議も、監査委員も、「誰も豊洲の現場検証をしない」、という決定的で致命的なミスをする。


こうして無責任体制がもたらした「盛り土不要案」がいつのまにか大手を振って容認事項l、決定事項となり、その総大将である都知事さえ騙されたまま物事が進んで行った。
以上が真相です。小池さん。

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