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2016年10月 9日 (日)

ザッツ管弦楽団 第15回演奏会

ザッツ管弦楽団~コンマスによるブルッフソロ&マーラー交響曲第6番
チラシ(フライヤー)で見た同団のプログラムに、マーラーの交響曲第6番があったので、でかけた。
よって初めて聴くオケ。
2001年に行われた都立駒場高校百周年記念プレコンサートをきっかけに、翌2002年に発足し、今回第15回目の演奏会とのこと。
指揮は田部井剛氏。

1つ余計なことを言うと、指揮者の紹介に1ページまるまる割くプログラムは珍しい。
オケのことは少ししか書かれていないのと対照的だ。
聴衆はむしろオケのことを知りたいはず。
これだとまるで、田部井さんがお金を出して創設したオケのオーナー指揮者みたいな印象を受ける。

あと今度は好意的な点として触れると、トラ(エキストラ=賛助出演者)が少ないこと。
マーラーの6番があるから、金管、木管に多少いるが、それでもトロンボーン4人全員が正団員。パーカスも1人だけが賛助で5人正団員。
弦はもっと顕著で、ヴァイオリンは今回出演の30人中2名がトラ、コントラバスは8人中1名だけがトラ。ヴィオラ14人とチェロ13人は全員正団員だ。

昨今、弦でも賛助に頼らざるを得ないアマオケが増えているので、そうしたオケからしたら、さぞ羨ましいことだろう。

さて、今回の演目で面白いのは、
1曲目のブルッフのヴァイオリン協奏曲を、同団コンサートミストレスの佐藤舞さんがソリストを務めたことだ。
プロはともかく、アマオケでコンチェルトのソロをコンマスが~それも音大卒ではない人が~定期演奏会で弾くというのはあまり例が無いと想う。

プロフィールによると、佐藤さんは5歳でヴァイオリンを始め、その後、名倉淑子さんら計6人に師事している。2002年青山学院大学に入学し、同学生オケに入団。3年次にコンマス。
卒業後は、このザッツ管弦楽団に入り、翌年からコンマスを務めてきている。
その他、室内アンサンブルや弦楽四重奏の活動もされている、とのこと。


 ブルッフ ヴァイオリン協奏曲

音程的には抜群で、1カ所問題があったり、やや怪しい個所も少しだけあったが、逆に言えば、30分を要する曲の中でその程度ということは、ほとんど完璧に弾いた、とうこと。

同じアマオケ活動者としてのエール的観点で言えば、
それは非情に立派だし、同オケの水準を大きくアップさせた功労者と団の誰もが認めるというから、第15回演奏会という記念演奏会的企画とはいえ、「コンマスをソリストとして演奏会を」とした同団の決定と実践は素敵だし、これだけ弾ける人がコンマスでいることの頼もしさと信頼を内外にPRした点でも素晴らしいことだったと思う。

ただ、一般聴衆からするとそれは関心外のことと言えなくもない。
特に同団と関係ない人には、良い音楽を聴かせてくれる(くれた)かどうかが唯一の問題となろう。

聴衆がアマチュアの演奏を聴く際、何を求めるか?は人それぞれだろうし、プロ、アマを区別することをしないとするスタンスも当然「あり」だろうが、
もし、敢えてアマチュアに求めるとしたら、それは技術的完成度というより、曲に対する熱い思いだったり、心情の直截的な吐露、発露、表現、ということではないだろうか?

多少、技術的に稚拙さがあっても、音楽そのものに対する思いの表出が聴けることを楽しみとしてアマチュアによる音楽を聴こうとする場合が多いのではないか?と想像する。

その観点から言うと、今回の佐藤さんのブルッフについて、技術的完成度を問われたら、私は「とても立派だった」と答えるが、熱い思いが伝わる演奏だったか?と問われると、私は「No」と答える。

音量が小さいのはやむを得ない。プロの特に有名な奏者ほど「良い楽器」を使っているから、音自体が豊麗だし、それと比べてもしょうがない。

でも、曲想に関して、強い思いをぶつけて、それを表現して聴衆に届ける、という点では「プロもアマもない。同じ」である。

この点、私は正直物足りなかった。
第1楽章は表現も良かったが、第2楽章での感情表現が弱い。
1例を上げるなら、練習記号Hの6小節目=118小節と119小節のそれぞれ3拍目からのソーミー、ソッソレーのGの音はフォルテシモなのに、音量というよりパッションが弱い。何も伝わってこない。

第3楽章は第1主題は良かったが、練習記号Eから12小節目=115小節以降のあの情熱的な第2主題では、曲想に対する熱い思い入れが伝わってこない。パッションが感じられない。

要するに正確に丁寧に弾こうとすることだけに集中している範囲に留まっていた演奏だったのだ。

「アマチュア奏者に厳しいことを言い過ぎではないか?」と思うかたもいるだろうが、仮にも演奏会でソリストを務めて聴衆に披露するのだから、プロと同じ土俵で感想を論じないと、かえって失礼だし、アマチュアだからとお世辞だけ言うなら意味がない。


 マーラーの交響曲第6番

冒頭から良い意味でオーソドックスなテンポ。
全楽章そうだった。
それと、オケの配置は昨今流行りの対抗配置ではなく、チェロを内、ヴィオラを外の通常配置による演奏で、これも好ましい。
対抗配置のどこが良いか疑問だし、マーラーの場合は特にコントラバスは指揮者から見て右手の通常配置のほうが良いと思う。

もう1点は、よく問題となる第2楽章と第3楽章の配置の点で、この演奏ではスケルツォを第2楽章、アンダンテ モデラートを第3楽章とした演奏で、これも賛成。
それは第1楽章の力動感が第2楽章のスケルツォに連動していく感がして、有機的に想えるからだ。その逆の第2楽章にアンダンテ、第3楽章にスケルツォにした演奏だと、構成的に=演奏の推移的に、一貫性が弱まり、説得力が劣ってしまうように想えるからだ。

弦は全ての楽章で抜群の演奏を示した。
管やパーカスはよく演奏していた。終楽章になると金管に疲労感が出たのか、割れがちになり精度をやや欠いていたが、第1楽章から第3楽章まではとても充実した演奏だった。

第1楽章と第4楽章のカウベル(ヘルデングロッケン)はいずれも音が弱過ぎた。もう少し大きめな音量のほうが良かったと思う。

地獄のような曲想の長い終楽章も各パートはよく頑張っていて熱演だったと思う。

なので、以下は演奏のことではなく、第4楽章の曲自体について考えたこと。

第1楽章から第3楽章までが大規模ながら形としては古典的にまとまった楽章であるのと対照的に、この終楽章は、圧倒的な、劇的で狂気じみた性質を帯び、ベートーヴェンの第九とは違う意味で「終楽章のみまるで異次元の、別世界の音楽」となっている。

この凄絶な終楽章はオーケストレーションの1つの極致なのだろうけれど、「悲劇的」という内面に最初は思いが行くが、しかし、マーラーが複雑にすればするほど、むしろ技巧に走って書いている気がしてくる。そういう意味では、大響音なのに気持ちがはぐらかされたり、ついて行けずに途中で「退屈感」さえ覚えてくる気さえする。

この終楽章は色々な意味で悪魔的であり、ある意味「音楽自体に対する挑戦的、挑発的な仕掛け音楽」とでも言いたくなる。

とはいえ、とりわけアマオケがこの曲に挑む姿勢は実に果敢だし、素晴らしいし、羨ましいことでもある。
終わってからの、拍手が起きるまでの場内の長い長い沈黙も良かった。
熱演、お疲れ様でした。
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