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2016年9月11日 (日)

トリスタンとイゾルデ 二期会公演

トリスタンとイゾルデ~偉大な作品だが第3幕に問題有り

11日午後、「トリスタンとイゾルデ」の二期会公演を
東京文化会館で観、聴いた。

歌手の皆さん、特にイゾルデを歌った池田香織さんは
本当に素晴らしかったし、演出も含めて第2幕までは充実した内容
だったが、第3幕自体が乱雑に書かれているので、
私はこの作品を聴くたびに第3幕でガッカリし心が折れてしまう。
まるで第3幕は別の人が書いたように感じる。
むろん、「愛の死」は素晴らしく、唯一別格だが。

もし、目の前にワーグナーさんがいたら、
恐れ多く恐縮しながらも、正直にこう直言するだろう。

 「第3幕は、「愛の死」を残して他の部分は
  全て書き直したほうがいいですね」、と。

世の中には、ドボルザークやチャイコフスキー、プッチーニ
などによる素敵な曲が多々在るが、
音楽史的に記念碑的な、エポックメイキングな曲というと、
限定的に言及はできると思う。

例 えば、バッハの「マタイ受難曲」、
モーツァルトの「魔笛」、
ベートーヴェンの第九交響曲、
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、
ストラビンスキーの 「春の祭典」、
マーラーの第九交響曲、
ベルクの「ヴォツェック」等。

そしてその中に加えなければならいのが、
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」だ。

いわゆる「トリスタン和音」は初演当初からしばらくは
専門家も聴衆も困惑させたというが、現代の耳からは、
少なくとも技術的な面からは、特別斬新なものとは
思えなくなっている。

しかしそれでもなお、こんにちにおいても確かに魅力的なのは、
あのいつ終わるとも知れない流れ、和音進行が、
とてもエロティックであり、退廃的なためだろう。

物語にナンクセを付けることは無論 容易(たやす)い。
例えば、
「媚薬で恋に堕ちる、そういう恋って、どうなんですかねえ?」と。
しかしこれには、
「その不道徳さ、不健全さこそが、この作品を魅力的にしている
 のだ」と反論することはできるだろう。
あるいは、ワーグナーが嫌いな人からは、
男女の愛が希望へ向かうのではなく、なぜすぐ「死」とか言って、
そっちに行きたがるか相当に不可解だろうし、
それはそれで まっとうな疑問には違いない。

「魔笛」はもちろん、「フィガロ」でさえ、明るい希望に向かって
物語りは開かれて行くのに、
なぜワーグナーはすぐ「死」と言 うのか?

困難から逃げてでも「希望」に向かえよ、とは全く健康な志向だ。

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この作品に限らず、「タンホイザー」は典型だが、
男の女性に対するナルシスト的な男性本位的な
「崇(あが)め立てる」思いが充満している。

それをロマンティストと呼んでもいいが、
むしろ夢想的願望的空想、と言ったほうが近いように想える。

「タンホイザー」では二律背反に悩む、誰もが持ち合わせて
いるであろう単純な男の心理がそれでもうまく盛り込まれ、
描かれ、作品として成功していると思うが、
「トリスタン」ではその感情が中途半端に描かれている
ように想える。

前者でのヴォルフレムの問いかけ、説得に対して
抗い悩むタンホイザーは弱さを率直に表している分、
正直さが出ているが、「トリスタン」ではマルケ王の問いに
トリスタンが「その問いには答えられない」とする場面は
単純な「逃げ」であり、人間的魅力を感じさせないだけでなく、
作品(物語の進行)として中途半端に想える。

それでも、作曲のうまさは、例えば、
第2幕での明るい開始や、二重唱を遮るように、
マルケ王が登場するときとか、2幕のエンディングとかに
凄く感じるし、第二幕の有名な二重唱はむろん、
後述するマルケ王の嘆きの場面における、男の悲しみ、
哀愁はよく出てくるよう書かれている点はさすがだとは思うが。

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歌手について
ワーグナーを歌える人は、たぶん日本ではまだまだ少ないか
と想像する。「あらかわバイロイト」では知る人ぞ知る、
こんなに歌える人がいるんだ、と驚くものの、それでも
イタリアオペラほど、歌手が豊富な状況とはとても言えない
だろう。

特に、歌う分量の多いイゾルデとなると、
そうとう限られるのではないか?

今回の池田香織さんは、
第2幕の有名な二重唱「夜のとばりを」は、繊細に始まり、
迫力をもって歌いきったし、全体的に敢然として際立っていて、
とても素晴らしかった。

池田さんを初めて聴いたのは2012年12月の
ル・スコアール管弦楽団が「大地の歌」を演奏した際で、
その後、2013年9月、
新交響楽団、東京アカデミッシュカペレ、ザ・シンフォニカの
3団体の合同臨時編成オケを飯森泰次郎さんが指揮した
プログラムの中で、「ブリュンヒルデの自己犠牲」を聴き、
立派なワーグナー歌唱を知っていたので、期待していたが、
期待に違わぬ、というより、期待を大きく上回る見事なデキ
だった。

他の歌手で、トリスタンの福井 敬さんは貫録ある歌と演技
だったが、第3幕でやや疲労を感じた。

マルケ王の小鉄和広さんが素晴らしかった。
終始、声と演技に風格があり、納得できる見事な内容。

ブランゲーネの山下牧子さんも充実のデキで、とても良かった。

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演出はシンプを基盤としていたのは好ましい。
ひし形に突き出た形の舞台に一艘の小舟を置き、
幕により青だったり、緑だったりと色の変化を付けていた。
ヴィーラント様式を研究しつつ、独創性を出そうとしたのだろう。
なお、第3幕の演出については、下記別途とした。
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第3幕に関する批判~曲想と演出について
もし第3幕に「愛の死」が無かったら、
ひどく平凡な幕となったばかりか、
第1幕と第2幕の充実感を台無しにしたことだろう。

第1幕と第2幕で、せっかくあれだけ見事な展開を創って
おきながら、第3幕の稚拙さはそれらをぶち壊しにしている。

もし、目の前にワーグナーさんがいたなら、恐れ多く
恐縮しながらも、しかし正直にこう言うだろう。
「第3幕は、愛の死を残し、
 他の部分は全て書き直したほうがいいですね」、と。

「できそこないのプッチーニ作品」のように開始し、
「できそこないのマイスタジンガー」、
「できそこないのローマ語り」のような曲想が続く。

だいたい、コールアングレをあんなに長くだらだらと
使う必要がどこにあるのか?

イゾルデとブランゲーネがほとんど唯一登場しない
第3幕の前半は、男たちのジメジメした悔恨やら嘆き、
独りよがりや自己陶酔が続く。

イゾルデが登場するまで、ひどく退屈な時間が続くので、
我慢を強いられる時間帯だ。
この部分は要らない。
カットしても作品に影響が無いばかりか、
カットしたほうが作品を更に充実したものなる。

せめて、その後、トリスタンの死の直後に
イゾルデの愛の死が続くのならばまだ救い様があるが、
その間におけるマルケ王とクルヴェナールのやりとりは、
まるでドタバタ西部劇のようでお話にならない。全く不要だ。

大作曲家といえど、いったん途中の幕で一大クライマックスを
創ってしまった後だと、もう一度仕切りなおして
有機的な展開の幕を続けることは困難を伴う作業のようだ。

愛すべきプッチーニやリヒャルト・シュトラウスにさえ、
それを感じる瞬間がある。

演出は変わった要素が多々あったが、
敢えてその是非を問わない。
なぜなら台本自体が稚拙であるのだから、
演出すること自体に最初から難しさが存在すると
容易に想像できるからだ。

それでも、男性の衣服は不満だった。
幕を追うごとに「現代っぽく」なっていった。
マルケ王やトリスタン、クルヴェナールが
ジャケットを着る必要がどこにあるのか?

ひし形上に突き出したかたちでの小舟を置く舞台は
そのままだが、色が白地に墨をかけた様は
ユニークではあるが、殺風景な病室をイメージしてしまう。

以上です。

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