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2016年5月26日 (木)

原爆慰霊碑の碑文 「過ち」をめぐる論争について考える~~オバマ大統領 広島訪問記念考察

以下は長文なのでお時間あるときにお読みいただければ幸いです。

~オバマ大統領 広島訪問記念考察~
原爆慰霊碑の碑文~「過ち」~をめぐる論争について考える

 「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」

この碑文は自身も被爆者であり当時広島大学教授だった雑賀忠義氏が起草し(撰文)、書き綴った(揮毫=キゴウした)ものだが、この中の「過ち」という語句について、当初からその「主語」をめぐって熱い議論が生じている。

すなわち、
「この碑文では誰のどういう過ちかを何も語っていないどころか、広島の人々だけに、あるいは日本人だけに過ちがあったかのようにもとれる。アメリカ国内の世論のまま原爆投下を正当化してしまう恐れさえあり、これでは被爆の教訓を伝えることにならないし、犠牲者を弔うことにもならない」、という碑文批判派 (碑文を書き改めるべきという主張)と、

それに対し、
「誰のせいかを詮索したり、主語にこだわることよりも、戦争という愚かな「過ち」をした人類全体への戒め、人類を代表して二度と戦争はしない、という誓いの碑文なのだ、と受け止めるべきだ」、
という碑文擁護派 (碑文はそのままでよいという主張)の対立だ。

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この碑文を素直に読むならば、
被害者としてだけでなく、中国、韓国、東南アジア諸国に対して戦争加害者という点も含めて、中国侵攻や真珠湾攻撃など最初からしなかったら、結果、加害者にも被害者にもならず、東京他各地への大空襲も、原爆投下自体も無かった、という仮定は仮説としては言い得る。
ゆえに、そうした人類が起こした戦争自体を「過ち」、「愚かな行為だった」と考えることで、理解できる碑文ではある。
「戦争という過ちは、我々日本人が人類を代表して今後認めない」とする決意表明に直結したものとして解釈はできる。
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実際、広島市は、
慰霊碑の「主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」(1970年 山田節男市長)とする見解を公式に示している。
現在のホームページ上でも「碑文を改めるべき」とする意見に対して、「過ち」とは「一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用」と返答し、碑文の修正は全く考えていないとしている。

建立当時の濱井市長が述べた「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」に準じている。

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では、どうして論争が拡大し、今も根強くあるのか。
いきさつとしては、少なくとも大きなキッカケの1人して登場するのは、国内の保守層ではなく、意外な人物だ。
それは、東京裁判で唯一、日本人戦犯無罪論を主張したインドのラダビーノ・パル博士。
博士は、「この碑文の「過ちは再び繰り返しませんから」とあるのは日本人を指しているのは明らかだ。しかし、それはどのような過ちであるのか?と私は疑う。ここに祭ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落とした者の手は未だ清められていない」と述べた。

これに対し、1952年8月2日、広島市議会において当時の市長、濱井信三市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」とパル博士の見解を否定する答弁した。

さらにこれに対して、
同年8月10日の中国新聞には「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」、
「原爆を投下したのは米国であるから、
 過ちは「繰返しませんから」ではなく「繰返させませんから」
とすべきだ」との投書が掲載されたりした。

そして再度、濱井市長により、
「過去の戦争は明らかに人類の過ちであった。碑文の前に立つ人がだれであろうと、戦争という過ちを繰り返さないと誓うことが将来の平和を築く基礎であり、今生きている人々がそれを実践したときに初めて地下の英霊は安らかに眠ることができる。よって、誰の罪か?誰のせいでこうなったか?の詮索をする必要はない」

との談話が同紙に掲載され、主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされた。

碑文を作成した雑賀教授も、
「パル博士の考えは狭量で、過ちを繰り返さないと霊前に誓うのは世界市民としての広島市民の気持ちであり、全人類の過去、現在、未来に通じる良心の叫びなのだ」と中国新聞に寄稿した。

こうして今では広島市による「碑文の過ちの主語は人類」が公式見解に至っている。
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2011年6月9日にカタルーニャ文学賞の授賞式で村上春樹氏は
「素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります」、と述べている。
もちろん、これに対しても批判の声はあるが。

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それは別としても、
碑文に賛否があろうと、忘れてはならいのは「犠牲者の思い」だろう。
その「思い」とは、例えば、次のように詠まれた歌に表されている。

 「生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ」

 「親呼びて叫びたらむか口開けしまま黒焦げし幼児の顔」

実際、被爆者の中には、「仇(かたき)をとってくれ!」と家族や友人に言って死んでいった人もいたという。

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また、次のように皮肉を込めた歌もある。

 「安らかに過ちは繰り返へしません という墓碑銘はウォール街にでんと建てよ」

これなどは、先述の「繰り返しませんからではなく、繰り返させませんから、だ」とする意見に通じる。

また、以前、碑文の下に(碑文に続くかたちで)、「(by) トルーマン」という紙が貼られた皮肉を思い起される。

 すなわち、
 「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
   by トルーマン

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あるいは、現状に対する警句としての歌もある。
「過ちは繰り返しませんと云ふ裏に再軍備は着着進みぬ」

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私は批判もよく理解できる。
すなわち、「広島市民が何か過ちをしたのか?」という素朴な疑問は当然言い得るし、「人類の過ち」としてしまうのは、犠牲者を神様に祭り上げ、あまりにも一般論にし過ぎであり、いわば「キレイ事」を宣言することで原爆投下自体を忘れようとするかのようではないか? 美しすぎないか?」、という疑念も理解できる。

「過ち、と言うなら、アメリカの行為に対してだろう」とか、
「犠牲者の痛み苦しみに想像を向けないで、勝手に犠牲者を神様に祭りたてることで、抽象的で一般論的な恒久平和論を唱えるのは、キレイ事過ぎないか?」
との批判、疑問も、私はよく理解できる。

それは「生き残った者の、勝手なご都合主義」と言えないこともないと思うからだ。

碑文は、投下者責任を曖昧にすることで、アメリカの主流である「原爆投下は、戦争を早期に終わらせ、米軍の地上戦突入による戦死者増加を未然に防いだ」とする根拠の無い、しかし同国内では圧倒的に強い世論を正当化してしまう文だ、という主張も理解はできる。

攻撃的な事件を起こしてきた右翼は別としても、現在でも「世界市民」という思想に批判的な意見は少なからず在るし、「碑文の解釈に大きな論争が起きること自体、碑文の文章に問題がある」、という意見や、
「現在もアメリカ人の過半数は広島原爆投下を正しいと考えているのだから碑文の主語にアメリカ人を含め得ないだろう」、という意見も存在するし、それ自体は理解できる。

やはり碑文が内在する抽象性、象徴性、あまりにも一般論的表現に疑問は感じる。

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こうした議論の対立における要点は、「怨念」をどう捉(とら)えるか、ということにある。すなわち、

「一般市民への大量虐殺である原爆投下の責任を追及せず曖昧にすれば、今後も曖昧な根拠のまま使用されることだってあり得る。なにより、犠牲者の死に至った姿をもっと想像せよ」、
と考えるか、
「いや、それを踏まえたうえで、人類として「過ち」としての行為、行使は、今後、どの国、地域においても、永久に認めない。尊い犠牲をムダにせず、恒久平和をめざす原動力とすることこそ慰霊になる」、
と考えるか。

もう1つのポイントは、賛成支持者が、戦争全般をとらえて愚かしい過ちとしているのに対して、批判否定者は、原子爆弾という人類史上初めて使用された巨大で特殊な大量虐殺兵器という点を強く意識し、とらえた観点からの批判、と言えると思う。
そして、両サイドいずれの側からも、主張できてしまうことも、混乱に拍車をかけているように思う。

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純粋に読み取れば、その意味、意図は十分理解でき、美しい言葉、碑文だと思う反面、悪意からの誤解はしたりはしないにしても、もう少し違う表現はできなかったのか?とも思う。
すなわち、「過ち」という、多くを包括し得る、抽象的な言葉を用いたことは、やはり失敗、というのは言い過ぎにしても「不適切だったな」という感想を抱いてしまうことも否定できないのだ。

1つの言葉をめぐって、これだけ印象、解釈、評価が分かれる言葉は、やはり選択しないほうが、使わないほうが良かったように思う。
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「過ち」という、主語を隠した抽象的な言葉ではなく、
 例えば、

 「どうか安らかに眠って下さい
  私たち日本人は、私たち世界に生きる人間たちは
  今後 戦争のない 原子爆弾のない世界をめざし
  実現してきますから」

と明瞭な言葉による決意表明をすればよかったのに、と思うのだ。

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いずれにしても、大事なことは二度と核兵器の使われない世界、戦争の無い世界を希求することには違いない。この点では碑文に関して支持する者も批判する者も同じであろう。

被爆者の想像を絶する惨(むご)い姿を想像することもせず、死んでいった人々の苦しみの言葉を聞こうともせず、そうした歴然として起きた「過去」を考えずに、安直に「さあ、永久平和だ」とする人達に、私は心からの共感はしない。
逆に、怨念だけに拘(こだわ)り、広義の、純粋な良心からの未来志向、平和志向をただ否定するだけの人達に対しても、私は心からの共感はしない。
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碑文の支持者は批判の内容を排除せずよく考え、碑文の批判者は純粋に世界市民としての永久平和への希求声明という理念を否定しないことが望ましいことと思う。

その両側を探って行けば、真に目指すところが見えてくるように想えるし、結局のところ、それは同じ魂を根幹に置いていることに気づくかもしれないと想像するからだ。

 (以上です。長文をお読みいただき、ありがとうございました)

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