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2015年12月17日 (木)

辺見庸氏と松本昌次氏による「花は咲く」批判について考えてみる

ジャーナリストの松本昌次さんが
「NHKがテレビで流しつづける「花は咲く」は、戦争中に歌われた
 「海ゆかば」と銅貨の裏表のような歌で、希望の涙で
 被災者の苦難を誤魔化している」、と批判している。

また、作家の辺見庸さんはこう言う。

「俺はあの歌が気持ち悪い。あの歌は戦時中に隣組制度を
 啓発するために歌われた「とんとんとんからりんと隣組」と
 一緒だから。
 でも、昨今、「花は咲く」を毛嫌いするような人物は
 反社会的人格者とか敵性思想傾向を疑われ、
 それとなく所属組織や社会から監視されてしまうような
 ムードがあるのではないか?
 要するに「難しいこと言わないで、助け合って頑張 ろうよ。
 ニッポンチャチャチャでやろうよと」いうことだ。

また、本の出版に際して、その本の中で辺見氏が「花は咲く」を
揶揄したところ、編集者が
 「それだけはどうしてもダメだ。みんながノーギャラで
  やっている。辺見さんも自作をちゃかされたら嫌でしょ、
  と言われた」、という。


 更に辺見氏はこう言う。

「震災復興支援ソング「花は咲く」が繰り返し流されているが、
 あれに涙しても、なんだか怪しいなと感じるひとはあまり
 いないんじゃないか。
 歌詞にもメロディにもどこにも尖りがなく憤りも悲嘆もない。
 言うまでもなく歌詞には原発再稼働反対なんてない。
 状況に斬りこむことは断じてない。
 花と愛、恋。ただうっすら切なくて美しい。
 
 極論すれば、あれはファシズムだ。
 ファシズムっていうのは必ずしも強権的に「上から」だけ
 くるものではなく、動態としてはマスメディアに煽られて
 下からもわき上かってくるものでもある。
 あふれた耳障りのいいことばだけがもてはやされ、
 不謹慎と非難されそうな言葉は排除される、そういう言説、
 状況に強い違和感を覚える」

 そして、こう続ける。

「言語空間の息苦しさを打ち破れるかどうか、は、
  <集合的なセンチメント(感情)に流されず、
   個人が直感、洞察力をどれだけ鍛えられるかに
   かかっている>。
 集団としてどうこうではないと思う」、と。


松本氏のいう、「あれは「海ゆかば」と同じだ」、と、
辺見氏のいう、「とんとんとんからりんと隣組と同じ(空気構造)。
          要するにファシズムだ」

に共通する批判(論点)は、
「マスメディアからのキャンペーンにより、個々が
 現実を見ずに、歌うことで自己満足し、現状肯定で
 済ませている」、ということだろう。


辺見さんは、「3.11」から数日後に、故郷 石巻の壊滅状態を
ほとんど慟哭といってよい文体で日経新聞に寄稿されていた。
あれは、(普段、恋愛小説ばかり書いている小池真理子さん
が呆然自失を隠さず書いていた文や、
先日プリツカー賞を受賞した建築家の坂茂さんによる
「自分でできることから始めよう」という文とともに)
とても印象的な内容だったし、

辺見さんが、こんにちに至るまで絶えず「3.11」を踏まえた
真摯な文章を本の刊行等で公表してきていることも知っている。

国内でも忘れている人が増えている中、ほとんど姿勢を
維持継続してきている例外的な人とも言える。
だから「とんとんとんがらりん」に置き換えた主旨も
理解できなくはないし、同様に松本氏の言う
 「海ゆかばと同じ」という主旨も理解できる。


批判はよく理解できる。

「歌うことで、被災者被災地のことを考えている気になって
 いる=フリをしている」となりがちな危険は確かにある。

自分の周辺でも、例えば合唱団OBでの集いとか、友人らと
カラオケの場なのでも、「花は咲くを歌いましょう」と「企画」され、
特別、良い曲だとは思わないし、かとって、
みんなで歌うことに特に反対する気も起きないから、
拒否してその場を去る、という選択は私はしていない。

過去3回くらいそういう「場」があったが、いずれも「合唱」した。特
別何かを考えて歌うことを拒否するようなことは私も
してこなかった。


また、ちょっと違う論点になるが、歌自体に関して言うなら、
同じ菅野でも、菅野よう子さんのこの「花は咲く」より、
ウィーン在の菅野祥子による「春なのに」のほうが
何倍も感動的だし、そちらをもっと広げたい位だが、
「花は咲く」は確かに歌いやすい耳に馴染みやすく、
敢えて言えば「安直に歌い易い曲」であることは
認めざるを得ない。


批判はよく理解できる。しかし、それでも反論の余地はある。

「歌うことで、被災者被災地のことを考えている気になっている
  =フリをしている、というのが、仮にそうだとしても、
自慰的ではなく、やはり歌うことで「3.11」を常に絶えず
意識し得るのもまた事実だ。

「海ゆかば」が大政翼賛会的に実質国家的キャンペーンとして
普及したことに対して、
「花は咲く」はNHKと福島出身の俳優たちによる
放送キャンペーンで広がった点は、似ているとしても、
形態はともかく、主旨なり意図なりが異なるだけでなく、「海ゆかば」が当時の鎖国的状況の国内に限定されて流されたのに対して、

「花は咲く」は、今では
人気男声ユニット「IL DIVO」が歌い、
NHKで放送された「ドリームライブ2014~世界からのメッセージ
 ~Music for Tomorrow」の放送を見ると、
アメリカのニューヨークやニューオリンズ、
フランスのストラスブール等で歌われてもいる、あるいは、
日本のポップスやクラシック等を問わず多くの歌手が歌っている
ことを考えると、まず、結果論として「広がり」がまるで
異なる状況にある。

辺見氏は、(特に「3.11」からそう経っていない時期だったが)
「被災者の前で「花は咲く」を歌えるのか?」と問う。

しかし、その問いの主旨を考えると、
何も「花は咲く」に対する問いかけにとどまらない。

あのとき、クラシック歌手も、J-POP歌手も、
海外のアーティストも皆深刻に考えたのは、
「音楽は無力だ(こういう事態下では無力ではないか?)」、
「生活基盤がままならない状況下で、歌いに行って
 よいものなのか? 歌を届けてよいものなのか?」
ということだ。

これは、「花は咲く」に限定していない。
被災者を気遣う国民や海外の多くの人に共通した気持ちであり、
認識だった。

これらを併せ考えると、やはり、松本氏と辺見氏の
「花は咲く」批判は、今回は間違い、考えすぎ、
と言えるだろう。


 それでも松本氏、辺見氏の批判は重要である。

2氏に対する単なる狭義の批判とかではない。
2氏の意見は色々なことを考えさせてくれる点で貴重だし、
むしろ私たちは、

 「2人の批判を忘れてはいけないことが大切なこと」

なのだ、と思う。

曲自体を考えたときも「軽さ」が気になる曲で、
控え目に言っても「強い共感は覚えない曲」だが、
逆に言うと「歌い易く、キレイ事を言っている」ので、
「擬似的な共感感興を起こしやすい曲」なのかもしれない。
その点からも、2氏の批判、指摘は重要だと考える。


ともずれば、「歌うことで「被災者、被災地のことを
思っている、忘れてはいない、という気でいる。
そういうフリをしている」ということになりかねない、ということを
考えたとき、2氏の批判は大切で重要な指摘だと思うし、
2氏の批判を常に忘れないでいることが重要な事だと思う。


最後に、辺見庸さんの著作からの文を紹介して
今回のテーマを終えたい。

「瓦礫の中から言葉を~わたしの<死者>へ」(NHK出版新書)

「私は脳出血の後遺症で右半身がどうしても動きません。
 ですので、被災地に駆けつけ友人、知人たちを助けにいくことが
 できません。
 そのかわりに、死ぬまでの間に、せいぜいできることを、
 それはこのたびの出来事を深く感じとり、考えぬき、
 それから想像し、予感して、それらを言葉としてうちたてて、
 そしてそのうちたてた言葉を、未完成であれ、
 死者たち、それからいま失意の底に沈んでいる人びとに、
 わたし自身の悼みに念とともにとどける
  ~それが、せめても課せられた使命なのではないか
 と思うのです。 

 それは決して、とおりいっぺんの「頑張れ」とか、あるいは
 「復興」とか、「団結」とかの言葉を
 スローガン的に言うことではない。
  “国難”に立ち向かう日本人の美質、東北人のねばりづよさ、
 負けじ魂、絆や思いやりの大切さをいたずらに強調する
 のとも違います。

 言葉というものの真のはたらきは、そんなものではない。
 人びとは本当は、もう一段、深い言葉を欲しているのでは
 ないかと、最近、とても強く感じています。
 被災した人びとが待ち望んでいるのは、
 第一に必要な生活条件、現状の回復でしょう。
 と同時に、事態の深みに迫ろうとする得心のいく、
 胸の底にとどく、とどけようとする言葉であるような
 気がします。

 それはいま語りうる言葉をなぞり、くりかえし、
 みんなで唱和することではなく、いま語りえない言葉を、
 混沌と苦悶のなかから掬(すく)い、それらの言葉に
 息を吹きかけて命をあたえて、他者の沈黙にむけて
 送りとどけることではないでしょうか」

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