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« 映画 杉原千畝 | トップページ | 都民響の第九~ベーレンライター版に関する疑問 »

2015年12月23日 (水)

安易なオペラ演出が多すぎる~歌手のハイレベル化に演出家は追いついていない

歌手のハイレベル化に演出家は追いついていない
という事を、私をふくめた単純な素人オペラファンは
誰しも感じていることだろう。

ワーグナー作品で「背広、スーツ姿」の登場してから、
「演出の堕落の時代」が続いている。
「奇を衒(てら)った演出」でも、本質を突いた内容なら、
聴衆は認め称賛するだろう。けれど、その域に至っている演出
がいったいいくつあるのだろうか?

「フィデリオ」で、獄中から解放された囚人たちの空間が
「ひらけポンキッキ」のような子供じみた色彩と衣装による
ミュージカル的演出に急変していたり、

やたら、ハンディカメラを持たせる演出が流行ったり、

「フィガロ」で描かれる西洋社会の矛盾を無理やり日本の
 武家時代に置き替えたり、

「魔笛」の冒頭とエンディングで日本の茶の間での
一家団らんの姿を設定したり、等々、小手先的で、
しょせん演出家の好き勝手な解釈に留まっているオペラ上演が
多すぎる。


ステージの出演者はもちろん、そして客席の聴衆ももちろん、
現代に生きていて今、その舞台を観ているのだから、
実は聴衆は必然的に「現代社会への読み替え」は
無意識的に皆行っているのだ。

だから、演出家がヘタな姑息な設定で「読み替える」ことなど
実はほとんど意味が無いのだ。

「では、どうする?」と問われても、それこそ、
「それを考え実行するのがプロ演出家の仕事だろう」、
としか言えない。


それでも、わずかだが、「意表を突きながら、
本質を突いた優れた演出」も「稀に」ある。

1例では、2008年に上演された、
アンドレアス・ホモキ氏演出による「ばらの騎士」だ。

普通は、
「元帥夫人が去り、彼女ではなく、新しい恋人である
 ゾフィーと新しい恋の生活に浸り入ろうとする
 オクタヴィアンが、ゾフィーとデュオを歌いながら
 舞台そでに下がり、ゾフィーが落としたハンカティーフを
 召使である少年が拾って2人を追うように舞台を去る」、
というシーンで終わるのだが、ホモキはそうしなかった。

ホモキ演出による上演でのラストシーンは、
「元帥夫人が舞台にポツンと1人、放心したように
 座っている状態で幕を下ろした」
のだった。

「元帥夫人という、年老いていく女性の哀しみ」という
テーマの核心、夫人の孤独を見事に描いていた。

誰も(やりそうで)やらなかった、核心を突いた演出を
やってのけた見事なまでの圧倒的な演出で
今でも感動をもって鮮明に思い返すことができる。

そういう演出が為されたオペラ上演をもっと観たい、
そう思っているオペラファンは多いはずだ。

参考URL
http://susumuito.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-e1da.html

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