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2015年4月 9日 (木)

天皇皇后両陛下がパラオ ペリリュー島をご訪問~その意義はとてつもなく大きい~日本人としてここで何が起きたかを学ぼう

天皇皇后両陛下は8日から1泊2日でパラオ共和国、
特にペリリュー島をメインとして公式訪問、すなわち
慰霊の旅をされた。

宿泊は海上保安庁の巡視船内だったとのこと。
10年前にも検討され、そのときはサイパンを公式訪問された。
バンザイクリフで一礼された両陛下の姿は誰もが記憶して
いるだろう。

今回、天皇陛下が最近おカゼぎみだったとのことで、
その点は心配だったが、ご無事にお帰りになり何よりなことだ。


 全ての戦死者を慰霊

かの地では元日本兵だけでなく、米軍の戦死者にも供花し、
追悼された。
具体的には、敵味方の区別なくその地で亡くなった全ての人を
追悼する施設である「西太平洋戦没者の碑」に供花し拝礼、
「アメリカ陸軍第81歩兵師団慰霊碑」にも献花、黙とうされた。

また、ペリリュー島から見えるアンガウル島でも
日本人約1,150人、米軍260人が戦死しており、
両陛下はアンガウル島に向かっても拝礼された。

そして、地元の島民とも語らい、戦火にまきこまれて死亡した
祖先についてお悔みを伝えられたという。


  ペリリュー島

「忘れられた戦い」
ほぼ全員戦死した日本軍だけでなく、アメリカも想定外の
1,700人の兵士が死亡したことから、戦後、
日米ともども触れないで来たと言われ、
そう呼ばれていた戦地を、
両陛下がご訪問された事の意義はとてつもなく大きい。

私を含むこの島での激戦を知らなかった日本人に対しての
大きな警告とさえ言える。

こういうことを知らないできた我々多くの日本人とは何なのか?
日本人が戦後に受けて来た歴史教育とはいったい何なのか?
何の理念や意義がそこに在ったのか?

問題はとてつもなく大きく、未解決なままだ。

1944年9月、米軍最強と言われた第1海兵師団ら4万人の兵士と
日本軍第14師団~それまで満洲に駐留しており精鋭部隊と
言われ南方転用させた師団~の1万人が激突した。

米軍は上陸前、「攻略は3日で終わる」としていた
 ~司令官リュパータス少将。

しかし、日本の大本営は、悪名高き特攻や玉砕を禁じ、
でき得る限り戦闘を弾き延ばし相手に打撃を与える命令に
大転換する決定を守備隊長 中川州男大佐に伝えた結果、
3日どころか、74日間もたせた。

ちなみに、これに勢いづいた大本営は、これ以後、
硫黄島などでも守備隊に「徹底抗戦」を命じた。

ある意味では「玉砕より残酷な命令」を現地に出したとも
言えるだろう。
もっとも、正確に言えば、玉砕禁止ではなく、
「時間をかけて玉砕しろ」、ということだったのだが。

昭和天皇も戦時中、ペリリュー島のことを気にされ、
「ご嘉賞(ごかしょう)」=お褒めの言葉を11回も送る
という異例の配慮をしている。

アメリカ軍が沖縄戦でも使用した火炎放射器を、
水陸両用戦車から放つかたちで最初に使用したのは
この地だった。

果てしない殺し合い。
ペリュリュー島~日本兵の死者数 約1万人。
アメリカ兵も1,684人戦死者、7,160人の負傷者を出している。

後のベトナム戦争は別として、米軍の上陸作戦史上、
最も大きな損害という。

米軍の太平洋方面 最高司令官だったニミッツ提督は戦後、
「米軍がこれだけの犠牲を払ってまでこの島を落とす
 必要があったかどうかは今もって疑問に思う」
と述べている。

これは、ペルリュー島に日本の飛行場があったことからの攻撃
だったにしても、実際は先立つ6月のサイパン島での戦いで
日本軍の航空戦力は壊滅していたので、
脅威は無くなっていたこと、および、
10月にはマッカーサー率いる軍隊がフォリピンを攻略し、
日本本土への爆撃のための飛行場を建設開始したことが
言及の背景にある。


日本軍は最終的に34名が生き残ったが、終戦を知らず、
投降したのは終戦2年後の1947年4月22日のことだった。

そのときの1人、今 95歳の土田喜代一さんは過去13回
パラオを訪れているが、今回も、両陛下のご訪問に合わせて
渡航されたという。土田さんは

 「両陛下のご訪問で、島での戦いがあったことが
  知られるようになったことが嬉しい。
  亡くなった戦友もどんなにか喜んでいることか」

と語った。


厚生労働省によると、今も現地には埋もれたままの壕が
200以上あり、約2,600柱の遺骨が埋もれている、

パラオ全体では日本軍約16,000人が戦死し、
約7,000人以上の骨が見つかっていないという。

厚生労働省は1952年から遺骨の収集事業を開始。
これまで日本兵の遺骨(米兵も含まれているだろう)は、
これまで7,600柱採掘されており、
焼骨式もたびたび行われてきた。

もっとも、生存者や遺族からなる各地にある「慰霊の会」は
高齢化で解散するものも多いという。
戦後70年は長い経過か、短い経過なのか?

なお、パラオのレメンゲサウ大統領が500以上あると
言われる洞窟のうち、事故防止等のため戦後ふさいだ
約200の洞窟を順次開けていき、
遺骨収集を加速させたい、と、協力する旨の発表をした。

結果的には、この島を獲得しようがしまいが、
日本はもちろんフィリピンを押さえたアメリカにとっても
戦略的意味が無くなった島において、勝つためというより、
ひたすら相手を殺すだけの戦闘が行われたのだった。

「最も空しい戦い」、「勝っても負けてもダメなのが戦争」
を象徴するのがペルリュー島と言えるだろう。

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