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2014年12月 4日 (木)

東京混声合唱団 第235回定期演奏会      三善 晃の合唱作品

東京混声合唱団の第235回 定期演奏会を
第一生命ホールで聴いた。

今回は 三善晃の合唱作品 として、4曲が演奏された。

指揮  大谷研二

ピアノ 浅井道子


 曲

1.嫁ぐ娘に~混声合唱組曲(1962年) 詩=高田敏子
       無伴奏曲
2.月夜三唱~女声合唱のための組曲(1965年)
       詩=中原中也

  (休憩)

3.クレーの絵本 第2集~混声合唱組曲(1980年)
       詩=谷川俊太郎  無伴奏曲

4.縄文連禱~混声合唱とピアノのための(1990年)
       詩=宗 左近


アンコール 窓の外は雪


作曲家と固有のトーン~
東混による三善晃作品オンリーの演奏会を聴いて

無伴奏作が2つ、ピアノを伴う作品が2つ。
うち、混声だけではなく、今回は女声のみで歌われる
 「月夜三唱」も加えられた。
後者では特に女声陣の実力をみてとれて楽しかった。

全体で一番感じたことは~今更ではあるが~
 「優れた作曲家には独自のトーンが在る」、ということだ。

モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、チャイコフスキー、
ストラビンスキーらは言うに及ばず、
武満徹にも、伊福部 昭にも、今回の三善晃にも在る。

武満や伊福部の、仮にそれまで聴いていない作品が
あるとしても、「この作品の作曲家は誰?」と訊かれた場合、
邦人の作品をある程度聴いている人なら、
 「タケミツ」、「イフクベ」と大抵当てることができるだろう。

この日の三善作品も、例えば、1ステージでの
 「嫁ぐ娘に」(1962年)の第3曲「戦いの日々」では、
「三つの抒情」(同年の1962年作)の中の
「ふるさとの夜に寄す」の中のトーンを連想させたし、

それから少し先でのテンポと音量がアップされたところでは、
既に9年後の「レクイエム」の断片を聴くことは可能だ。

あるいは、「月夜三唱」での1曲目冒頭や3曲目冒頭での
個性的音色のピアノソロ(伴奏)部分には、
彼の単独のピアノ曲や室内楽の一節を容易に連想し得る。

こうしたことは、むろん、「引用」とか真似というレベルの
話ではなく、固有のトーンやそれを紡ぎだす手法などの
中から自然と現れる音型だったり、色だったりする、という、
もっと潜在意識的な、あるいは、
もしや逆に確信的な感興から生じてきたもの、
と言い得るだろう。


それにしても、「嫁ぐ娘に」の第1曲冒頭から、
この独特の和音の世界を聴いていると、後年の、
こんにちに至る合唱作品を書いている作曲家のほぼ全員に、
何らかの影響を与えているのでは? と想像できる。

それくらい、三善さんの作品の持つ斬新で
美しいトーンはユニークだ。

コンサートの最後に歌われた「縄文連禱」(じょうもん れんとう)
 (1990年)は、既に6年前の「響紋」をもって完結した
戦争三部作の「レクイエム」や「詩篇」の断片を含みつつも、
もっと明瞭な調性を意識的に組み入れた
 ~いわば「希望」を多く組み込んだ~しかも、
それでいて新しい作曲技法も感じられる、という
見事な作品だった。

それは、数年後、1990年代にもう一度「戦争」を意識的に
とらえ直して書かれた4つの作品群とも異なる斬新で
明るい要素を色濃く残したものとも言えるだろう。

1985年に行われた三善さんの個展演奏会のプログラムに、
武満さんが三善さんを評して書いた「絶対抒情」という言葉が
「嫁ぐ娘に」や「月夜三唱」の中の、そうしたものを象徴して
言い得るのだろうけれど、同時に三善さんには
音のぶつかり合いによる激しいドラマも多くに内在されていて、
その「矛盾」や「未解決」の中にこそ、
この技術的熟練を見つけ出すことができる、とも言える。

それは「縄文連禱」にも「「クレーの絵本」第2集の
 「死と炎」にも見出し得る。

この日の東混の演奏で、こうしたことをあらためて
それを確認できた、いや、教えていただいたコンサートだった。

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客=聴衆を見て感じたこと~中学生とクラシックコンサート
以下、直接的には東混のことに限らない事を書く。

ポップスコンサートは若い聴衆観衆がメインだろうけれど、
クラシックの場合、オケの演奏会だろうと、室内楽だろうと、
オペラだろうと、歌手のリサイタルだろうと、
聴衆の7割から8割くらいは、私よりずっと先輩の60歳以上、
70歳前後の男女のかた、という状況がほとんどだ。

控え目に言っても、6割は普通にいらっしゃるだろう。

いろいろな分析はできるだろう。いわく~悠々自適のかたが
多いだろうし、特にその世代は、戦後、日本の高度経済成長を
支えた、あるいはその中に在った人々で、
経済的にも結果的には一番恵まれていた世代、年金についても
昨今のような問題が発生(正確には発覚)する以前の
 「予定通りもらえている」恵まれた世代だから、
ということはあるだろう。

逆にそれゆえ、今、アーティストたちが恐れるのは、
 (失礼ながら)「この人達が来なくなったら、
コンサートやオペラはどうなるのか?」ということではないか?

ここ10年くらい、どの演奏会後でも大抵、ロビーでの
CD販売や演奏を終えたばかりのアーティストがロビーに来て
サイン会を行うという、昔では考えられないくらい、
積極的にお客さんとの接触に注力されているのは、
その「この人達が来なくなったらどうなるのか?」という
危機感が在るからだ、とも想像できる。

なんせ、ヒラリー・ハーンやエレーヌ・グリモーなど、
世界中にファンがいるだろう人でも演奏後、
ロビーに出ることが増えたし、諏訪内晶子さんもそう。

時代的にアーティストとファンとの敷居が低くなった
ということはあるにしても、やはり、アーティストだけでなく
当然、音楽オフィス、CD製作会社等、経営側を含めて、
 「もっとクラシックファンを増やさねば」という危機感は
当然強いだろう。


それでも、今日の東京混声合唱団の演奏会のように、
となりに真面目そうな無垢そうな男子中学生2名がいて、
三善晃の合唱作品ばかりの演奏会という、
中学生にとっては~いや、我々大人にとっても~決して
単純な音楽とは言えないような作品ばかりの演奏会に来て、
楽しそうに拍手をしている姿を見ると、
こちらも自然と気持が温まるのだ。熱い思いを感じるのだ。

将来のアーティストだけでなく、
将来の聴衆=クラシックファンにこそ、
将来の盛況な音楽界がかかっているのだ。

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