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2014年11月12日 (水)

ベルリンの壁崩壊から25年~同民族分断の悲劇~崩壊のキッカケはひょんな事から

11月9日、ベルリンの壁崩壊から25年が経った。
壁が崩壊したとき、ロストロポーヴィッチは
チェロを持って直行し、壁の前でバッハを弾いた。

 「今こそ東西ベルリンで第九を」という
ユストュス・フランツ氏の提案に賛同したバーンスタインは
12月、東西両ベルリンで第九を指揮した。

同年7月にカラヤンは他界していたし、内容的にも
バーンスタインほど相応しい指揮者はいなかったろう。

オケはバイエルン放送響(西独)、
ドレスデン・シュターツカペレ(東独)、
ニューヨーク・フィル(米国)、
ロンドン響(英国)、
レニングラード・キーロフ歌劇場(ソ連)、
パリ管弦楽団(仏)と6カ国6オケの有志による臨時合同編成。

合唱もバイエルン放送合唱団(西独)、
ベルリン放送合唱団(東独)、
ドレスデン・フィルハーモニー児童合唱団(東独)の合同。

ソリストもソプラノがジューン・アンダーソン(米国)、
メゾがサラ・ウォーカー(英国)、
テノールがクラウス・ケーニヒ(東独)、
バスがヤン=ヘンドリク・ロータリング(西独)

によるものだった。

また、このとき歌詞の「Freude(喜び)」を「Freiheit(自由)」
に置き換えられた。これはシラーが当初そうする予定だった
という説(現代の研究では、それは事実ではないと
される説が有力)に基づくものだが、

バーンスタインは演奏に先立ち、
 「その真偽は別として、今回そうして歌うことについて、
  ベートーヴェンは喜んで私達を許し、祝福して
  くれるにちがいない」と述べている。

12月25日の東ベルリンでの演奏は、
録音だけでなく録画としても残されている。

壁を越えようとして東独監視舎から射殺された人は
138人にのぼるという。


 崩壊前の背景

1989年5月2日、既に改革派が民主化を進めていた
ハンガリーで、ネーメト・ミクローシュ内閣がオーストリア
との国境線の鉄条網撤去に着手し、鉄のカーテンが綻び始めた。

6月18日にはポーランド人民共和国で複数政党制による
自由選挙が実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を
果たした。

夏になると多くの東ドイツ市民はハンガリー、オーストリア
経由で西ドイツへの亡命が出来ると考え、夏の休暇を
利用してハンガリーに出国した。

この時、東ドイツ首脳部は最高指導者のホーネッカーが
療養生活に入っていたために指導者不在の状態に
なっていた。

8月19日、ハンガリーでいわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック」が
成功すると、ベルリンの壁が持つ意義は相対的に低くなり、
東ドイツ国民はハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、
プラハやブダペストの西ドイツ大使館にも溢れかえるように
なった。

ハンガリーのホルン・ジュラ外相は東ドイツ政府に対して
ハンガリー国内にいる東独国民を処罰しないことと、
西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫ったが、
東ドイツ政府は何の反応も示さなかった。

9月になっても東ドイツ国民の出国は止まらなかった。
11日にはハンガリー政府は東ドイツとの協定
 (当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶ
と同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡
するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄し、
国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で
西ドイツへ出国させた。

こうした中、イギリス首相マーガレット・サッチャーは
ミハイル・ゴルバチョフ書記長に、
ソビエトのリーダーとしてベルリンの壁崩壊を阻止するために
出来得る限りのことをするよう要請というようなことも生じた。

10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖
した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、
ハンガリー、オーストリア経由で出国することは不可能
になった。

逃げることが出来なくなった東ドイツ国民は不満を
体制批判に転化させるようになり、ライプツィヒを拠点に
デモ(月曜デモ)が激化していくことになった。

ゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の
青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、
ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、
党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。

10月9日にはライプツィヒの月曜デモは7万人に
膨れ上がり、市民が「我々が人民だ」と政治改革を
求める大規模なものとなった。

ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたが
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者の
クルト・マズアらの反対に遭い、
また在独ソ連軍が動かないことが判明して失敗に終わった。

10月18日にホーネッカーは正式に退陣し、
クレンツが後任となった。

しかし、元々クレンツはホーネッカーの子飼いの部下であり、
国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ
信頼されていなかった。


  崩壊の原因、きっかけ

1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表
した。しかし、この法案では出国の際には相変らず
国の許可を要する等様々な留保条件が付けられていたため、
既にそれまでのように党の決定に対して従順では
無くなっていた人民議会によって否決された。

議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で
対処することにした。

989年11月9日の午後3時過ぎに、クレンツは
中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し、
 「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を
読み上げた。

当時、社会主義統一党のスポークスマン的な役割を
担っていたシャボウスキーは、記者会見が始まって
1時間ほどたった頃、内容をよく把握しないまま
国民の大量出国問題に対し、
 「我々はもう少々手を打った。ご承知のことと思う。
  なに、ご存じない?これは失礼。
  では申し上げよう」
と言うとクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、

 「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての
  国境通過点から出国が認められる」

と発表した。この案は中央委員会の承認は受けていたが、
未だ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず、
正式な政令にはなっていなかったのだが、
シャボウスキーは閣議決定されているものと錯覚していた。

この記者会見場で記者が「(この政令は)いつから
発効されるのか」と質問したところ、
上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが
決められていたにも拘らずそれを伝えられていなかった
 (シャボウスキーに渡された文書は10日に報道発表
  するための文書だったため、
  上記の政令案と違って発効期日は書かれて
  いなかったため、
シャボウスキーは
 「私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです」
  (Das tritt nach meiner Kenntnis
   … ist das sofort, unverzüglich.、
と答えてしまった。


この発言を受けほどなく国境ゲートで、通過しようとする
市民と指令を受け取っていない国境警備隊との間で
当該指令の実施をめぐるトラブルが起きる。

マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが
強調されたことも混乱に拍車を掛けた。

この記者会見の模様は、夕方のニュース番組において
生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は
 (東西ベルリンでは放送が相互にスピルオーバーするため、
  東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能
  であった)
半信半疑で壁周辺に集まりだした。

群衆は「ゲートを開けろ、ゲートを開けろ、壁を撤去しろ」
と叫びだした。

ボルンホルマー通りの検問所には、
 「より攻撃的な」連中を捜し、その姓名を控えた上で
  パスポートの写真の上に特別なスタンプを押して
  通過させろ」
という命令がなされた。

このスタンプを押すことは東ドイツの市民権を剥奪し、
帰国不可にすることを意味していた。
21時20分頃イエーガー中佐は、この方法で250-300人を
通過させたが、さらにその背後には数千人の殺気立った
群衆がゲートを圧迫していた

クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると
感じていた。

11月9日22時30分頃、ボルンホルマー通りの検問所には
2万を超える群衆が詰めかけていた。
イエーガー中佐は何度も上官に指令を仰いだが
 「待て」と言われるばかりであった。
流血の事態を恐れたイエーガー中佐は上官に
 「これ以上検問所を維持することは出来ない」と伝え、
独断で部下にゲートを上げさせると、
群衆に手を振って通過を促した。

こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放されることになった。

本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容
であって東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が
必要であった。

東ドイツ国営テレビは繰り返し、
 「旅行には申請が必要です」と放送していたが、
それを顧みる者はいなかった。

混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため、
許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、
大量に西ベルリンに雪崩れ込んだ。

西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようと
ゲート付近に集まっており、抱き合ったり一緒に踊ったり、
あり合わせの紙吹雪をまき散らすなど、
東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が
各所でみられた。

この大騒ぎはそれから三日三晩続いた。

数時間後の11月10日未明になると、どこからともなく
ハンマーやつるはし、建設機械が持ち出され、
 「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始めた。


このように、
報道官に就任したばかりのギュンター・シャボウスキーは
記者会見の準備に追われ会議に遅れて来たことから、
詳しい内容を全く把握せず書類を受け取り、記者団の中から

 「国民から非難を浴びている出国規制について
  政府はどうするつもりか?」と質問をされ、

書類を見ると「外国旅行を無条件で認める」の一文があったので、
 「東ドイツ国民は自由に外国旅行をすることを許可します」
と報道解禁前の内容を話し始めてしまったのだった。

記者からいつ発令するのか聞かれると、文面の
 「出国ビザを遅滞なく発給する」を勘違いし、
 「私が知る限りでは…今でしょう。
  東ドイツ国民は今すぐ全ての国境通過過点からの
  出国が認められます」と発言してしまった。

この会見はすぐさまテレビで大々的に報道され、
人々はベルリンの壁に押し寄せた。
何も聞かされていなかった検問所は群衆に大慌て状態。

イエガー大佐は国民を出すことを決意。
そうして午後11時30分、ついに
30年間ドイツ国民を分断していたベルリンの壁が解放された。

このベルリンの壁崩壊をきっかけに翌年、東西ドイツが
平和的に統合。
それをきっかけに東欧の社会主義政権やソ連も崩壊。
長きに渡る西側と東側の冷戦の終結を迎えることになった。

一つの大勘違いが歴史的な世界平和をもたらしたというわけだ。

もちろん、そうなる必然的状況がベルリンだけでなく、
欧州の各地で醸成されてきていた、ということがあるわけだが。


もともとドイツ人が住む地域を、政治思想という
 「バカげた幻想」に基づく米ソ対立の象徴として
強制分断されたに「すぎない」のだが、
物理的にも、東ドイツの中に在るベルリンを、
更に東西2つに分け、その西ベルリンの全域を封じたのが
悲劇の壁「ベルリンの壁」だった。

同じ民族でありながら対立する構造、という悲しい
信じ難い現実は今も韓国、朝鮮人の人達の間にある。

もちろん日本にも戦国時代を典型として同じ国民同士が
殺し合う歴史は長く在った。
そうした時代には親族間においてさえ、
謀反(それが事実でない場合も含め)という名の下に
殺し合いが行われてきた時代が在ったが、

せっかく崩壊したのに、その後(今でも)なぜか
 「旧東出身」というだけで偏見や差別があるという。

それを排除しよう、「今度は心の壁を取り除こう」ということが
今後の合言葉となるだろう。
まだまだ未解決の根が深い問題がある現代においても
なおそれが存在する事の深刻さ。

あらためて、それを再認識すべきベルリンの壁崩壊から
25年というべきだろう。


なお、日本の作曲家やアーティストの多くに、
この「壁崩壊」は影響を与えた。

 「聞こえる」(きこえる)は岩間芳樹が作詞、
   新実徳英が作曲した合唱曲。
 1991年(平成3年)第58回
 NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲。

 『壁の向こうのFreedom -24th March,1989-』
  THE ALFEE 作詞・作曲:高見沢俊彦
  壁崩壊から10年後の1999年、日本人として歴史的な
  イベントに参加し、ブランデンブルク門の前でライヴを行った
   (同曲は英語版で
   『Freedom On The Other Side Of The Wall』という
  タイトルで演奏された)。

 アルフィーは、ベルリンの壁を模したステージでの
  「RESISTANCE」ツアーの真っ最中に
  「ベルリンの壁崩壊」が起きるという、
  不思議な因縁を持つ(1989年の秋のコンサートツアー。

 また、長淵剛さんもNHK「紅白」での特別出演で、
 ベルリンからの演奏が行われたことも記憶されている人は
 多いだろう。

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