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2014年8月21日 (木)

長崎原爆 爆風の衝撃波マッハステムの脅威

17日、NHKスペシャルで
「長崎原爆 知られざる衝撃波 マテャステムの衝撃」が放映
された。
最初の先入観では、こういう物理的な検証はどのくらい意味が
あるのだろう?と思ったのだが、実に貴重な検証内容だった。

今でこそ、原爆、水爆はもちろん、原子力発電所の事故による
被曝イコール放射能、放射線の問題が常識だが、
1945年以降、1950年代の、米軍の少なくとも
実践部隊関係者においては、原爆といっても巨大な新型爆弾
という認識が強かったのか、放射能、放射線より、
強大な爆風にこそ関心があり、実際、
長崎での死者の死因の半数は爆風によるもので、
熱線熱風や放射線によるより甚大だったと知り、呆然とした。

アメリカ国立公文書館で見つかった資料によると、
アメリカは事前に、原爆により、具体的にはマッハステムと
呼ばれる衝撃波による爆風により生じる被害の規模、
どれくらいの広範囲で人を殺害できるか事前予測するよう
トーマス・ファレル准将が指示していた。

具体的には「5PIS」という最大効果値を生じるには、
上空どのくらいで原爆を爆発させればよいか、ということだ。

上空100mだと中心部にマッハステムが生じるが、
5PISの威力は1.4kmまでしか拡がらず、
1000mだと中心は希薄になり5PISに届かないなどから、
長崎に投下されたプルトニウム原子爆弾は上空503mで爆破
された。
これにより、1.7kmまで5PISのマッハステムが及んだ。


具体的には爆心地300mでマッハステムが発生し、
その最大値は爆心地500mで生じた。そこにあったのは
鉄筋コンクルートでできた頑丈な建物の
 旧 城山国民学校(現 長崎市立城山小学校)だった。

当時、生徒たちは自宅待機とされ不在だったが、
北側の校舎には教員、南側の校舎には三菱兵器製作所の
社員や九州各地から動員された若い女性たちがおり、
原爆投下により 138人が死亡。
生存者は20名のみだった。

損傷の激しい遺体が多く、親族に知らされることなく
校庭でダビにふされた。
後、その校舎を解体する際も、壁などから多くの遺体が
発見されたという。

なお、ファットマンと命名された投下された原爆の威力は、
広島に投下されたウラン型原爆の1.3倍、
実際にも壊滅された面積は広島の10倍に及んだという。


今回、爆風に関する研究のキッカケとなったのは、
竜巻の研究者 故・藤田哲也博士の遺品から、
被曝後の長崎市の写真34枚と、赤い円などが見れる地図
が昨年になり発見されたことからで、今回、熊本大学で、
600分の1規模で爆風に関するモデル実験がなされた。


  その前に、マッハステムとは何か。

巨大爆弾が上空で爆発すると、その爆風は地上に向かい、
それが地上にぶつかるとドーム状に広がる。
地上では同心円状に拡がるのだが、その横に水平に拡がり
進んでいく爆風が、上からの爆風と重なることで倍加されて
進行する圧力の壁が、進行することで更に高さと威力を
増したものをマッハステムと呼ぶ。

8月9日午前11時2分の原爆炸裂後、わずか0.1秒で
マッハステムが城山国民学校に到達。
そのときの圧力は8000トンと推測されるという。

生存者20人のうちの1人が、北側校舎の校長室で会議
していた教頭 荒川秀男さんだった。
会議していた校長を含む同室の4人は死亡。
後、荒川さんは他の地域での生存者らからも実態調査して
 「原爆の記録」として残している。
同室の4人の状況も書いていて凄絶だ。

番組では、先述の実験のほか、シュミレーションにより、
北側校舎の校長室と、南側校舎に、
どうマッハステムとが襲いかかったかも説明された。

北側校舎には炸裂後0.04秒後に1万2000トンの
マッハステムが届き、ガラスを破って突き当りの壁に
炸裂後0.1秒で届いた爆風は、
後ろからの爆風とぶつかり威力を増した。
更に、南側校舎との間にあった中庭にも強い圧力が
かかったが、その力も、中庭にも面していた校長室に
向かい結果、一層強大な爆風が校長室に入ったと
推測された。

南側校舎の被害も甚大だった。
100人いたうち96人が死亡した。

生き残った金谷(旧姓 武藤)弘子さん(86歳)は当時17歳。
三菱兵器製作所の経理で同僚3人と同室で働いていた。
皆さん良い先輩で、良い職場で良かったと思っていた
という。
9日はたまたま金谷さんが防空壕を掘る登板に当たっていた
ので、11時少し前に部屋を出て防空壕に行って作業を開始
した。そして原爆が爆発。弾き飛ばされたが助かった。

すぐ同僚のいる部屋に行こうとした。
中村千代子さんは体中にガラスが刺さり
 「痛いを通りこしてる」と言い、
野元久子さんは目が2mほど飛び出ていて
 「ぼんやり、半分くらい見える」と言ったという。
けれど2人もその後死亡。

野元さんは生前、金谷さんに
 「平和になったら私の故郷の鹿児島に遊びに来てね」
と言っていたという。

もう1人の奥サナエさんは見当たらなかったが、
米軍の記録に残されていた。

米軍の記録とは、原爆投下後1ヶ月後に米軍は
日本人医師や科学者を伴い、被害状況を調査に来た。
その資料の中に、城山国民学校の状況に関するものもあった。

建物の見取り図に即死者は●、
しばらく生存していたがやがて死亡した人を
○の横半分を黒く塗った記号で記し、
そそれぞれの人についての死因も書かれていた。

No.33 AIKO TANAKA 22歳女性 死因=爆風

No.7 WAYATA FUJIWARA 30歳男性 死因=圧死

No.34 SACHIKO YAMAZAKI 20歳女性 死因=判別不能

そして、奥サナエさんも、No.63 として爆風による即死
とされてあった。

これらの「データ」は、その後のアメリカの核開発に利用された。


放送では、鹿児島から初めて同地を訪ねて来た
奥サナエさんの妹さんが、金谷さんと初対面するシーンがあった。
妹さんには戦後、サナエさんが長崎で死亡したとだけ知らせが
きただけだったという。
もちろん遺灰等はなし。
長崎のどこで死亡したかも、今回の調査まで、
69年間知らないままだったという。

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