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« 集団的自衛権~戦後最悪の閣議決定 愚の骨頂 | トップページ | 日下紗矢子さん ~トッパンホールシリーズ   ヴァイオリンの地平 1 バロック »

2014年7月10日 (木)

山田和樹さん&スイス・ロマンド管弦楽団      武蔵野合唱団 第47回定期演奏会        「唱歌の四季」と「讃歌」を団員として歌った

山田和樹氏が首席客演指揮者を務めている
スイス・ロマンド管弦楽団が来日し、その公演の中の1つに、
武蔵野合唱団との共演の演奏会がある。

正確には、武蔵野合唱団の第47回定期演奏会であり、
日本・スイス国交樹立150周年記念演奏会を兼ねた公演
となっている。

この異例な顔合わせは、山田さんが東京藝大 指揮科の
学生時代から武蔵野合唱団と関わってきたことによる共演
に他ならない。
山田さんは同合唱団の古参のメンバーにはニックネームで
呼ぶほどの関係が出来上がっているのだ。

私は山田さんに興味を持ったのは、以前も書いたと思うが、
彼が20代で三善晃の「レクイエム」を取り上げたことからだ。

三善さん自身にも信頼を得、小澤征爾さんの代役で、
サイトウ・キネンでオネゲルの「火刑台のジャンヌ・ダルク」を
指揮して、役者さんであるカラヤンの娘さんイザベラと共演、
生前の岩城宏之さんにも認められて東京混声合唱団の
指揮者になり、最近、音楽監督になるなど、
実力と運の強さによるキャリア展開が凄い。

歌手で実力と運の強さで押しも押されぬ段階にいる小林沙羅さん
とともに、今やクラシック界での若手スーパースターと言えよう。


武蔵野合唱団のことも以前書いたかもしれないが、
1986年にアマオケの雄、新交響楽団と故・山田一雄さんが
マーラー・チクルスの一環として第8番「千人」をやった際、
第1コーラスが武蔵野合唱団で、第2が公募だったので、
私は応募して第2コーラスで出演したという縁があった。

もっともその後は同合唱団の演奏会には行っていなかった
のだが、昨年6月の第46回定期演奏会と9月の特別演奏会
でのピアノ2台と横手フィルのパーカッションメンバーとの
 「唱歌の四季」と「カルミナ・ブラーナ」を拝聴したりする中、
武蔵野合唱団には、大学の後輩が数人既に入団していて、
そういうこともあって今年、入団させていただいた次第だった。


スイス・ロマンド管弦楽団&武蔵野合唱団 演奏会
 =武蔵野合唱団 第74回 定期演奏会

日時  7月9日(水)19時開演

会場  東京芸術劇場

管弦楽 スイス・ロマンド管弦楽団
合唱  武蔵野合唱団

指揮  山田和樹

ソリスト
ソプラノ…林 正子、市原 愛、
テノール…西村 悟


演奏曲目

1.唱歌の四季(三善晃編曲、鈴木輝昭管弦楽編曲)

2.メンデルスゾーン 交響曲第2番「讃歌」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まずはメモから

7.9リハ
林正子さんが歌い始める。素晴らしい。
それは判っていた。けれどこの日はもっと素晴らしい。
涙が出てきた。さすが林さんだ。

林さんの声には潤いと強さだけでなく、
 「温かさ」があるのだ。
ソプラノの中でもずば抜けて声量豊かだが、
その強さや広がりには「温もり」がある。
それが心に沁みて、あるいはズンズン入ってくる。
そういう素晴らしい声。

テナーソロの西村さんも申し分のない見事な美声。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

7.9本番

1曲目の「唱歌の四季」
終曲に直接四季とは無関係な「夕焼小焼」が置かれている。
その意味を合唱団員は学んでいる。
小学生の三善さんの戦時下は
 「明日、夕焼けが見れるかわからない」毎日だったと。
旋律の無垢な美しさと本番という感慨に、
演奏者側にいながら目頭が熱くなり、
  「まずい。冷静に歌わねば」と思った。

終わって休憩で楽屋に戻るとき、他の男性団員が
 「夕焼けで泣きそうになった」と言ったので、
 「私でけではなかったんだ」と納得した。


そして「讃歌」

この半年の集大成。個人的には暗譜でここまで歌える
ようになるとは思わなかった。
全体的にも曲が進むにつれ合唱団の燃焼度も
フル展開してとても感動的だった。

オケは~フランス系だけあって~特に管が素晴らしい。
トロンボーンのマイルドなトーンでの完璧な演奏。
ファゴットの音色も素敵。クラリネットのソロは
 「これこそ国際的な第一級のクラリネット奏者の音と演奏」
 たるもので、感嘆した。

陽気なオケと、それに数段輪をかけて陽気すぎるほどの合唱団
とのコラボは、プロとアマという次元を超えた、
純粋な意味での音楽による調和と交流と演奏だった。
参加して本当に良かった。すべての関係者に感謝します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、せっかくなので、ここからは、フェイスブック(FB)に
書いた事を次の順番で転記したい。

1.編曲あれこれ
2.エルネスト・アンセルメ
3.ソリスト
4.スイス旅行

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1.編曲あれこれ・・・演奏会後FBに書いた内容

編曲と作曲それぞれ巧いかどうかは別なような気もする。
林光さんの「原爆小景」は三善晃の「レクイエム」、
ブリテンの「戦争レクイエム」とともに戦争をテーマとした
偉大な作品だが、
林さんによる武満徹の「死んだ男の残したものは」の編曲は
あまりよくない。

ところで、三善晃さんの「レクイエム」「詩篇」「響紋」の
戦争三部作はむろん、「麦藁帽子」など小品でも
素晴らしい作品が多々あることを知っている。
私は三善さんの合唱曲を相当知っているほうだと思う。

さて、「唱歌の四季」は、編曲も2台のピアノを駆使した
見事なものだが、1か所だけ、どうも釈然としないところがある。

3曲目の「紅葉(もみじ)」の練習番号3、すなわち、
男声で2番歌詞が歌われたところから続くところで、
  Fdur(ヘ長調)から急に Des dur(変ニ長調)に転調
するシーンだ。

長調から短調ではなく長調への移行であっても、
ここで一瞬「色調が曇る」感じがしてしょうがない。

この部分について、山田和樹さんは
 「紅葉の色合いが変化する様子が描かれている」
と解説されており、「なるほど」と思いながらも、それでも、
私にはここで長三度下に移調する必要性を感じない。

というか、演奏効果上はさほど鮮明でない感じがするのだ。

Des durに「降りた」なら、その後も例えばH dur に転調
していくとか、どんどん移り変わるのならまだ理解できるが、
Desのあと、早々に再び F dur に戻っているゆえ、
なおさら必要性において違和感を覚えてしまう。


作品の9月、武蔵野市民会館の客席で聴衆として
聴かせていただいた際もそれを感じたし、
今回自分が歌う側に転じてからも、ここの部分では
いつも同様の違和感を覚えていた。
私の中ではこの部分は「唱歌の四季」の中で
今後も「?」として残る部分だ。

もっとも、私が会場にお招きした友人の1人は、
 「2曲目の「讃歌」だけでなく、1曲目の「唱歌の四季」も
  ほんとうに素晴らしかった。スイスのオケなのに、
  ちゃんと曲想を理解しているような美しい演奏で、
  それに乗っての日本語の歌詞による合唱に
  心から感動した。
  <日本人としての誇り>を感じたくらいだった」

という、正に演奏者冥利に尽きる素敵なコメントを
いただいたことはぜひ紹介しておきたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2.エルネスト・アンセルメ・・・演奏会の前にFBに書いた内容

高校生のころからアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団の
 「春の祭典」やラヴェルの曲を楽しんできたし、
ラジオで「春の祭典」のリハーサルが放送されたことが
あり、それをカセットレコーダーに採って聴いていたのも
懐かしく感じられる。
そのリハの音源をユーチューブで探したが見つからなかった。

その代わり、といってはヘンだが、意外なことに
ベートーヴェンの交響曲の演奏がいくつかアップされており、
中でも第7番は映像としても残っている。

それだけで終わるのも何なので、以下、長くなるが
もう少し書いてみたい。

スイス・ロマンド管弦楽団は、1918年に
エルネスト・アンセルメが創立したのだが、
それから50年後の1968年、アンセルメと同オケとの
初来日公演は、あまり評判がよくなかったことは
よく知られている。

リリースされてきたLPレコードと、ライブでのギャップが
大きく、
 「録音技術の工夫で、良い演奏、優れたオケに
  聞こえただけでは?」と疑惑が生じたからだ。

もちろん、その後のサヴァリッシュ等の歴代指揮者や
世界的な技術向上の中で、同オケも各段のレベルアップ
がなされたことも知られている。

ところで、戦前もワルターなど有名な指揮者が客演しているが、
中でもフルトヴェングラーの客演は意外感がある。

これは、アンセルメとフルトヴェングラーが
互いに尊敬しあっていたことと強く関係する。

レパートリーは全く異なるのに~いや、それゆえ、
かえって互いを客観的に理解できたのだろうが~2人の間には
強い信頼関係が生じていた。

①2人の間での手紙も、例えば、1947年7月27日付けで
  フルトヴェングラーからアンセルメにこう書いている。
 「ザルツブルグでメニューインと共演します。
  私はバルトークの協奏曲を希望したのですが、
  彼はブラームスを希望してきました。ですので、
  私はブラームスとベートーヴェンをやらせていただき、
  あなたにはストラビンスキーとバルトークをお願いしたと
  存じます」

②1949年7月12日付けで、フルトヴェングラーから
  アンセルメ宛てに、
 「試演や演奏に先だって、オーケストラに必要な
   「イ音」(Aの音)を恒常的に出してくれる、何とかいう
  新しい電気製品のお話をうかがったことがありますが、
  その器械の入手場所と方法をご教示いただければ、
  私と緊密な関係にあるウィーン・フィルとベルリン・フィル
  のためにも誠に幸いなことになります。
  
  優秀なこの2つのオーケストラも「調律」に関しては
  残念ながらあまり自慢できないからです」、

 と書いている点は非常に興味深い。

③亡くなる4週間前の1954年11月4日付けで、
  フルトヴェングラーはアンセルメに12音音階の問題
  について書いている~2人とも12音技巧については
   反対の立場で一致していた~のも興味深い。

また、フルトヴェングラーが亡くなった翌日の
1954年12月1日、アンセルメ次のような言葉で開始
する感動的な弔意文を書き、
ジュネーヴの放送局から放送された。

 「フルトヴェングラーの死はあまりに衝撃的でした。
  万感こもごも至り、言葉にならないほどです」

その中で、
 「戦後、彼は忌まわしいばかりに政治的偏見の犠牲に
  なりました」と、対ナチスとのことで、
アメリカを中心とした「反フルトヴェングラー」の現象が起きた
ことに言及し嘆いてもいる。

このように博識で誠実な音楽家 アンセルメは、
ストラビンスキーとの友情と別離、12音技法批判、
独墺系音楽家との交流など、常に欧州の音楽文化全般
に深く根付いた文化人としての85年に及ぶ人生を送った
のだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3.ソリスト・・・演奏会の前にFBに書いた内容

メンデルスゾーンの交響曲第2番「讃歌」は、混声合唱の他、
ソリストとしてソプラノ2名とテノール1名という、
ソロの声を伴う管弦楽曲としては変わった編成となっている。

以下はあくまでイメージとして書くと、

ソプラノ1と2とした場合、
一般的なイメージでは1は王道的なというか
明るく輝いたリリック・ソプラノを想定して作曲され、
したがって起用する歌手もそういう声質の歌手を選び、
2はメゾに近いというかいわゆるドラマティック・ソプラノを想定
して書かれ、そういう歌手を起用する、と想像できる。

けれど、この「讃歌」はスコアのヴォーカルパートを見る限り、
特別そうした配慮を作曲者がしたように感じない。
詳細は知らないのであくまで私の印象だが。


 「讃歌」でソロがある曲は

第2曲の後半…ソプラノ1名(と女声合唱)
第3曲…テノール
第5曲…ソプラノおよび2、混声合唱
第6曲…テノール;最後の一節をソプラノ1名
第8曲…テノールとソプラノ1名

こうして見た場合、

①第2曲混声が歌った後、ソプラノソロ1名と女声合唱の
  掛け合いで第2曲が終わるが、普通はソプラノ1とした人が
  歌うかもしれない。
  けれど、たぶん、過去のライブや録音によっても
   (おいても)そうかもしれないが、指揮者の判断で、
  よりその曲に相応しい(あるいは好調な?)人が歌う
  という「変化」を付けても多分何ら問題は無いと想える。

②第5曲は明確に1と2と分けられたデュオだから、
  起用されたとおりのパートで歌われるはずである。

③第6曲の最後の一節は、第7曲への導入の掛け声だが、
  これも通常はソプラノ1とする人かもしれないが、
  これまた①同様の判断もあり得るだろう。

④第8曲も1の人が歌うのが王道のようなイメージはあるが、
  これまた①同様の判断が指揮者によってなされる余地は
  当然あると想える。

今回のソプラノソロは林正子さんと市原愛さんだが、
この使い分けは山田和樹さんが検討、指示してなされる
ようだし、ステージ経験の豊富さや声質から、
林さんが多用されるかもしれない。

さて、それはそれとして、以下は今回の「讃歌」と関係なく、
あくまでも3人に関する私の個人的な思い出というか
拝聴経験等を記す。


林正子さんは2005年7月 新国立でのツェムリンスキー
 「フィレンツェの悲劇」で初めて直に聴き、
とても印象に残った。
その後、2010年4月24日にHAKUJUホールでの
リサイタルを聴き、同日付けのブログで
  「豊麗な声を堪能」として書いている。
アンコールで歌われた「小さな空」と
 「家にいるときもよく口ずさむ」として歌った
 「You raise me up」もとても印象的だった。

昨年2013年11月は日生劇場でライマンの「リア」
でのリーガン役を聴いているし、彼女については、
他の日付も含めて、
 「ジュネーヴ在住なので、日本で歌声を聴く機会が
  限られるのがとても残念だ」と何度も書いてきている。
なので、今回、思いもよらず、
共演させていただけるのは本当に嬉しい。


市原愛さんは名前だけは知っていたが、
未だ直に聴いたことは無かったが、昨年の確か今ころ
ご出産されたことは知っているし、
10月の「せんくら」で聴いてみようと考えたが都合が
つかなかった。そういう意味でも今回楽しみだ。


西村 悟さんは、昨年7月15日、
東京藝大の奏楽堂(新)での毎年恒例の
 「海にきらめく珠玉のチャリティガラコンサート」で
直に聴き、とても感動した。
そのことも同日付けのブログで書いていて、
西村さんについてこう書いているので、そのまま転用すると、

 「この日最大の「発見」。実に素晴らしい。これぞテナー。
  この日一番の歓声と拍手はうべなるかな。
  当然というところ。
  樋口達哉さん、水船桂太郎さん、高田正人さん、
  岡田尚之さん等々、
  これからもたくさん聴いていきたいテナーに、
  この西村さんも加わった」

このように、各人各様で個人的な思いがあるので、
今回共演させていただくのはとても光栄だし、
楽しみにしている次第なのだ。

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4.スイス旅行・・・演奏会の前にFBに書いた内容

初めてスイスというかヨーロッパに行ったのは
大学を卒業する直前の1982年2月から3月にかけての
安い学生ツァーだった。

今でも信じられないのは旅費の安さで、
11か国、22日間で約35万円だった。
人数は確か男女計20数人だったが、
どう考えても旅行業者が採算が採れたとは思えない。

しかも、円が240円前後の頃だ。
昨今の為替レートでもムリだと思うのに、
240円前後の時代だ。

では宿泊ホテルが「チンケ」だったかと言うと
そんなことはなく、ロンドンはなかなか立派だったし、
ウィーンに至っては「ホテル・シェーンブルン」という、
思わず添乗員さんに「僕らがここに泊っていいんですか?」
と真顔で問いただす位の豪華なホテルだった。

加えて、日本への帰途の飛行機は、
何か手違いがあったということで、そのお詫びというか、
手違いのおかげでナント「ビジネスクラスで帰国した」
というオマケ尽きだった。
どうやって採算を採ったのだろう?

11か国 十数都市めぐりだから、スイスは
ユングフラウの登山電車で登ったのと、
チューリッヒに1泊した程度だったし、
 時期ゆえ「ユングフラウって、どこにあるんですか?状態
の天候」だったので、
 「スイスだけでも夏に来るぞ」と「誓い」を立てた。

実現したのは1993年の9月、
スイスのみの横断1週間旅行だった。
特にグリンデルヴァルトは文字通り「緑の森」緑の絨毯
の町に魅了され、登山鉄道も満喫し、
ユングフラウの途中、クライネシャイデックでは
売店の老婦人から、
 「エーデルワイスの押し花があるから、あげるわ」
と、いただいた。

グリンデルヴァルトからロープウェイで、アイガーを中心とした
メンヒ、ユングフラウの雄大なアルプス全景を見て
しばし時の流れを忘れた。
アイガーの麓を見て「ここに骨を埋めたい」と真剣に思った。

ツェルマットもマッターホルンへの入り口として独特の
雰囲気のある町。
マッターホルンは午前のほうが全景が見えやすいとのことで、
登山電車でゴルナーグラードに行ったが、
 あの「とんがり帽子型」のマッターホルンの最上部の
ほとんどは雲がかかって見えなかった。

ゴルナーグラードの休憩所兼レストランガーデンで
待つこと2時間、昼近くによくやく全景が見えたのだが、
午後、ツェルマットに戻るとそこ(下)からずっと見えていたので
何のことはない、午後行けば良かったというところだった。

バスでジュネーヴに向かう途中、ブヴェイには
全く似ていないチャップリンの銅像があった。
チャップリンは晩年をブヴェイで暮らした。

ジュネーヴでは陽光を浴びた広大なレマン湖のほとりの
散策がなんと行っても魅惑的で、
いつまでも歩いていたかった。

ジュネーヴでは他にほぼ1日自由時間があったので、
私は1人で、その年の1月に亡くなった
 オードリー・ヘップバーンのお墓参りを試みた。

亡くなって9カ月の当時はあまり情報がなく、
トロシュナという村の名前がかろうじて判った程度で、
今の様なインターネットの無い時代、
それがどのへんに在るのか判らなかったし、
ジュネーヴのホテルのフロント係の男女2名が結構
時間を割いて調べてくれたのだが、
日本の「いびつな個人情報保護法」状況と違い、
元々本当の意味で「個人」が確立した文化圏の中だから、
有名女優の家や墓といっても、現地の人々は
そうそう知らないのが当然なのだ。

後年、レマン湖畔の町モルジュの近郊のトロシュナ
という小さな村がそうと知り、昨今ではオードリーが
晩年過ごした家とその共同墓地内のお墓には、
日本からも訪問者が増えてきているようだし、
現地のホテルマンも今なら判る人は多いかもしれないが、
当時は未だそういう状況ではないこともあり、
結局行けなかった。

いつか絶対行こうと思っている。
オードリーのお墓参りをするまでは死ねないと思っている。

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