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2013年8月 6日 (火)

ヒロシマに寄せて~「過ちは繰り返しませんから」という碑文に関する所感

広島の「原爆死没者慰霊碑」(正式名称「広島平和都市記念碑」)
に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
という碑文について、フェイスブックで友人とやりとりをした。

2人も「主語を曖昧にしているのは日本人の優しさという気質は
あるにしても、主語も目的語もあいまいにしてきていることが
今日にまで続いていることはよいこととは思えない」
という点で一致した。

この「過ち」とは何なのか? 誰が犯したものなのか? という点
については、設置当初(前)から議論や批判がある。
大江健三郎さんでさえ数十年前にこの言葉に対する疑問を呈して
いるし、まあ当然ながら右翼からの攻撃も当初からあったようだ。

この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義 広島大学教授
によるもので、浜井信三広島市長が述べた
 「過ちとは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味して
  おり、この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端を
  にない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように
  深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、
  犠牲者へのこよなき手向けとなる」、に準じたものという。

すなわち、「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」、
「広く人類全体の誓い」であるとの意見。

浜井市長はこうも言っている。
 「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどい
  ことは人間の世界にふたたびあってはならない」。

よって、主語は人類全体とする現在の広島市の見解だ。

後年の市長 山田節男は
 「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。
  主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する
  警告・戒めである」という見解を示した。
この見解が出されて以降、碑文の意図するところは、
 「日本」「アメリカ」といった特定の国の枠を超えて、
  全ての人間が再び核戦争をしないことを誓うためのもの
  である」、とする解釈が公式見解となった。


 また、広島市役所のホームページでは、

 「この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に
  一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和の
  いしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に
  対して反核の平和を誓うのは、
  全世界の人々でなくてはならないというものです」

 「すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り、
  戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。
  過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて
  全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を
  祈念するヒロシマの心が ここに刻まれている」

 と、解説、説明している。


  「それでも 好ましい表現とは思えない」

碑文はすべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、
戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である、
という犠牲者への冥福と不戦の誓いの言葉であることは
理解できる。

「戦争をしてしまった、という過ち」ということだろうし、
 「今後の日本だけでなく、人類全体の平和への希求を
  宣言する言葉」という解釈はもちろんできるが、しかし、
原爆の投下した側と被爆した側という観点からの具体的検証を
考えとき、
 「何の過ち? 投下された側の人たちが直接何か過ちを
  した?」という疑問、というより理不尽さを多くの人は
感じるのではないか?

ここで問題なのは、原爆投下という史上初の類の無い、
絶対悪としての具体的手段そのものが本来思考の中心に
置かれるべきであるのに、
 「戦争」という一般論あるいは抽象論に置き換えることで、
 「過ち」を「人類全体の過ち」として置き換えてしまったことが
文意を曖昧なものとしている、それがこの解り難い文の「事情」
だと想う。

例えば「アメリカを許しませんから」と書けば、直截的で
一番解りやすい感情の吐露となるが、国際関係上書けないという
だけでなく、そうしたことをよしとしない日本人のメンタリティー
にも大きく依拠する判断にも想え、
それは日本人の美質であることには違いない。

けれど、その美質と背中合わせに「曖昧さ」が在り、
こうした曖昧さが、こんにちの、唯一の被爆国でありながら
原子力エネルギー使用に対する曖昧な姿勢にも通じている
ようにも想えるのだ。

原爆など投下しなくても勝敗は決していたにもかかわらず、
ウランとプルトニウムという2種類の原爆を広島と長崎に落とす
ことで「威力確認と人体実験」を行ったという点で過ったのは
アメリカであり、また、戦争を早期に止めようとしなかった
という点で過ったのは日本政府である。

この具体的検証を棚に上げて、
 「戦争はもうしない。亡くなったかたゴネンナサイ」とした
反省を、犠牲者が今、生き返ってこの碑文を見たら、
 「ジョーダンじゃねえ」と怒るのではないか、と想像する。

平和主義思想のもと、二度とアメリカをはじめ核保有国には
投下という過ちはさせませんから、という決意表明なら、
それに沿った解り易い表現が必要だったと思う。

唯一の被爆国として、核兵器の恐ろしさを全世界に伝えるべき
国が、今 核の傘の下にいるという矛盾が確かに存在するが、
それでも、いや、それだからこそ、
せめて日本は一般論的表現ではなく、
もっと明確なメッセージで言い表すべきだと思うのだ。

もっとも、25年ほど前の夏季休暇に初めて広島に行き、
その石碑を見たときは、理屈を超えてすんなりと
 「これは死者、犠牲者に対する純粋な鎮魂の気持ちからの
言葉なのだな」と感じたことは正直に記したい。


いずれにしても、少なくともNPT準備委の共同声明
 (核の不使用)に署名しないでいることは、
唯一の被爆国として信じ難いことだ。
ここでもアメリカの顔色をうかがっている、そういう情けない、
主体性の無さがはっきり見えるし、
 「継続している曖昧さ」ということを強く感じる。

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