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2012年8月15日 (水)

戦場の軍法会議~処刑された日本兵       NHKスペシャル 8月14日放送

太平洋戦争における東亜アジアにおける日本軍では、
熾烈を極めた戦闘の中で、飢えに苦しみ、食糧を求めて
ジャングルをさまよった日本兵たちが当然いた。
そして彼らが同朋部隊に捕まると、その多くは
勝手に離れたとして「逃亡罪」で次々に拘束され、
処刑されていたのだ。

しかし、当時の記録は、特に終戦が見えてくるにつれ、
ほとんどが軍によって焼却されたため、その詳細は
今まで明らかになってこなかった。

そんな中、法務官という現場の法治を担当する軍人だった人が
密かに残していた軍法会議に関する日記が公になった。

  海軍元中佐 馬場東作

昭和7年司法試験に合格、法律家に。
戦後は弁護士に転身。日弁連の副会長も務めた。
 「私が死んだら公開してよい」として、長年、
軍法会議に関する資料を研究していた北博昭さんに
託した資料は、極秘に残しておいた戦時下現場での
軍法会議に関する、戦前〜戦時に書いた
18冊の日記と手紙。300枚以上の内部文書だった。

NHKは、その資料と14時間に及ぶインタビュー・テープ
に基づき、事実を裏付ける、あるいは、その背景を説明
してくれる証言者を探したが、取材に応じてくれる人は、
わずか。
特に取材が難しかったのが、戦時中、兵士を裁いた
法務官と、軍法会議によって処刑された兵士の遺族
だったという。
ほとんどが「戦争のことには触れて欲しくない」、と
 一切の取材を拒否。

それでも「当事者がほとんどいなくなった今だから」と、
重い口を開いてくれた人々のおかげで番組を放送することが
できたという。

記録を残した馬場元中佐は初期の日記には戦争への
嫌悪感を書いている。
戦場における軍法会議は、軍人の犯罪を軍自らが裁くもので、
法律の専門家ではない軍人が取り仕切る。
5人の裁判官のうち1人だけいた文官が法務官。
軍法会議でも重要な役割のはずだった。

昭和7年、その法務官になり、戦場に赴いた。
開戦から4カ月、法律が改正せれ、法務官は軍人となった。
昭和19年11月、馬塲元中佐マニラへ派遣。
日本軍は連合軍から激しい攻撃を受けていた。
  馬塲元中佐日記
「湾内各所に残骸をさらす船あり。戦火を初めて見るを得たり」

昭和20年1月。部隊は北部のバヨンボンへ移動。
馬塲元中佐は司令長官に、違法な処罰を防ぐため、
戦場でも公正な裁きを、として全ての犯罪は軍法会議に
かけることを徹底するよう訴えたが、逃亡が相次ぐ状況
となっていくと、空腹に耐へ兼ね逃走する兵士が増えていく
各地の部隊では、軍法会議自体がしだいに行われなくなっていき
法を無視した強硬手段としてその場で銃殺していく状況が
増えていった。

具体例を馬場元中佐は書き残している。

 中田富太郎上等兵。当時22歳。

食糧を探しに部隊を離れ、15日後に逮捕されたのだが、
馬塲元中佐は、
 「この事実だけでは死刑に値しない。<戦時逃亡>に
  あたるから、懲役・禁固刑」と。
しかし現場の幹部は馬塲元中佐に死刑を正当化するための
法的根拠を示すよう迫り、中田上等兵には
死刑が言い渡される。

 罪状は<奔敵未遂>
すなわち、中田上等兵は戦わずに敵の捕虜になった、
とされたのだ。
実際は、事の真相は「中田上等兵が、英語をうまく話す」ことに
あったという。要するに、
 「敵側に寝返られ、情報が漏れては大変」
ということだろう。

中田上等兵の処刑のことを馬場元少佐は詳細に記録している。
 「昭和20年2月27日、中田富太郎を拘束して刑場に到着す。
  十字架に両手及び腹部を縛着せしむ。銃手兵3名。
  顔面を狙ひ一斉に発射。 処刑」

その後、馬塲元中佐、法律家として一線を超え、
 「敵前で軍記を保つため逃亡者を斬ることは犯罪にはならない」
と、軍法会議にかけずに兵士を処刑することを、緊急時だとして
認めてしまった。


なお、不当に処刑された中田富太郎上等兵の本籍、
山口県周防大島の遺族に処刑が伝えられたのは、
処刑から2週間後。
その後、遺族はいつの間にか島からいなくなり、
島から戸籍を他の地に移した。
  遺族のひとりは言ったという。
 「中田富太郎のことは知らない。もう触れないでほしい」


馬場元中佐の資料以外にも、戦後、旧厚生省が軍法会議の
関係者に聞き取り調査をしていたことがわかった。
裁判官や法務官など20人。昭和30年代〜40年代に調査。
ブーゲンビル島で不審な死をとげた兵士の資料。
19人が、正当な裁判を受けずに処刑されたとされる。

  例えば、城 一俊 陸軍曹長の死刑

関与したという裁判官がひとりも出てこない。
一切の訴訟記録が存在しない。本人が適法な裁判を受けたと
する証拠が何もない。

城曹長の甥、辰九郎さんは昭和30年代半ばになって、
叔父 城曹長が逃亡兵として処刑されたことを知ったが、
そのきっかけは、遺族年金の支給を断られたことからだという。
遺族には、旧厚生省が調査を行っていたことも、
その記録も知らされていなかった。

遺族年金については、昭和45年以降、法改正により
遺族に年金が払われたが、今も「敵前逃亡罪で死刑」と
書かれたままなのは変わっていないため、
叔父の名誉を回復できないかとして熊本県庁へ向かったが、
結局、
 「事実とか事実無根とかの証明は、役所としては
  現時点ではやっていない」
として罪名は消えず、そのままとなっている。

その他、上官による処刑を目の当たりにした元海軍
 平嶋福美さん(91歳)は言う。

 「戦場は理不尽ですよ、滅茶苦茶ですよ。連行していったら
  そのまま並べてみんな銃殺です」

そして終戦の日、陸軍省では、軍法会議の資料の焼却が
行われ、空は煙で真っ暗になったという。

戦後の、中田上等兵処刑に関する馬塲元中佐の告白。
 「死刑にするかどうか随分悩んだんですよ。
  かわいそうなことしたなと思ってたんです」

 「戦争が悪い、といってしまえばそれまでであるが、急迫した
  戦場心理は自己防衛なり部隊防衛に偏ってしまうことが
  避けられない。忸怩たる思いはするが、法務の責任者として
  やむを得なかった」


軍紀を守るために厳罰を科し“見せしめ”を求めた軍上層部の
意向で、本来なら死刑にならない罪でも兵士を処刑。
「法の番人」であるはずだった法務官たちでも、軍の上層部に
抵抗し続けることができなかった。

間違っていると分かっていても組織が決めた大きな流れには
逆らえない個人、都合の悪い証拠を隠ぺいしようとする空気は
今のこの国にも残っていると言えるだろう。

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