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2010年3月28日 (日)

「ラ・ボエーム」 アンドレアス・ホモキ氏の演出

神奈川県民ホールと、びわ湖ホール共同制作としてのオペラが
ここ数年進行中だ。
今年はプッチーニの「ラ・ボエーム」。
例年同様、3月中旬(今年は13日~14日)にびわ湖ホールで
上演してから、神奈川県民ホールで、という流れ。
プログラムには神奈川県民ホール開館35周年記念、ともある。
指揮は、びわ湖ホール芸術監督でもある沼尻竜典さん。
オケはここでは地元の神奈川フィルハーモニー管弦楽団というのも
例年どおり。

この共同プロデュース、開催公演では、今回の演出を担った
アンドレアス・ホモキによる演出で、ホモキ氏といえば、
2008年に上演されたリヒャルト・シュトラウスの
「ばらの騎士」が鮮やかな印象として残っている。特に
エンディングは極めて印象的だった。「ばら」のテーマは
「伯爵夫人という、年老いていく女性の哀しみだよね」、
ということは皆知っていても、ステージ演出としては、
スコアどおり、夫人が去り、「夫人相手」ではなく、新しい恋人
であるゾフィーと正に新しい恋の生活に浸り入ろうとする
オクタヴィアンがゾフィーとデュオを歌いながら舞台そでに下がり
ゾフィーが落としたハンカティーフを召使である少年が拾って
2人を追うように舞台を去る、というシーンで終わるのだが、
ホモキ氏はテーマの核心である伯爵夫人の孤独を表すべく、
なんと、
「舞台にポツンと1人伯爵夫人が放心したように座っている状態」
で幕を下ろしたのだった。
核心を突いているのに、誰も(やりそうで)やらなかった演出を
やってのけ、見事なまでの圧倒的な印象を聴衆、観客に与えた
のだった。

では、今回の「ラ・ボエーム」ではどうだったか?
歌手の皆さんを敢えて差し置いて、ホモキ氏の演出をメインに
書かせていただきたい。


【空間を広く使った演出について】
「ばら」では、場面にもよるとはいえ、基本的にはステージ全体を
利用して豪華に舞台を造ることが一般的だが、2年前のホモキ氏は
むしろ舞台を中央に小さく凝縮、フォーカスしたような設定をした
のが印象的だった。
ところが、今回はやはり一般的なやり方とは逆、すなわち、
第1幕や第4幕での「通常はボヘミアンたちが暮らす屋根裏部屋
での物語」とせずに、ステージ一杯を使って第1幕では屋外の
ような、終幕でも屋外、それもレストランでのパーティ会場の
ような設定にしたため、全体に空間を大きく使った演出という印象
を強く抱く。

特に全幕を通じて一番理解できなかったのは第一幕で、
あのような屋外の状況だと、ミミとロドルフォが出会う場面での
「必然性と偶然性」がかえって意味的に希薄になってしまうように
思えた。
ロウソクの灯りを求めて部屋を訪ねる「出会い」の場面の
意味合いが希薄に感じられてしまった。

後で触れる、2008年にネトレプコとビリャソン主演で映画化
された作品は、ここを敢えて「ミミは実はそれほど「清純な心」の
持ち主でもなく、男に「様々な意味において助けを求める」ために
「わざと灯りを吹き消して」ロドルフォの部屋のドアをノックした」
というところまで変化を加えた演出にしてあったが、
あの「あざとさ」のほうが、かえって「女性の苦しい状況」を
いささか現代風に(?)アレンジしたとはいえ解り易かった
のに対して、この幕でのホモキ氏の狙いは成功していたとは
思えない。
しかも2人やマルチェッロら友人たちだけでなく、彼らを
多くの街の人達が取り囲むという状況を設定した狙い
というものは私には理解できなかった。

【休憩なしについて】
終演後、ホールを出るとき、70歳代後半と思えるご年配の男性が
「休憩なしなんて知らなかったよ」と怒った口調でお連れのかたと
歩きながら話されているのが聞こえた。
もちろん、最初から告知済みなので、ほとんどの聴衆は承知して
いたはずだし、だいいち、例えば映画のスタンダードフィルムの
長さも2時間前後であるとか、NHKのニューイヤーオペラも
2時間生放送の当然休憩なしのスタイルであることを考えれば、
皆さん事前にトイレ等の所用は当然済ませているわけで、
失礼ながら先述の年配者のグチは例外的であって、
事前告知としての配慮には問題は無かったと思う。

では、本質的な問題、すなわち、上演に際して、
「敢えて休憩なしの映画式の通しスタイル上演」が、
「はたしてホモキ氏が狙ったほど効果的であったのか?」
という点については、私は懐疑的な感想を持った。
ご承知のとおり、各4幕はそれぞれ随分内容が異なる。
特に第2幕の賑やかな街の場面と第3幕では、物語としても
時間的に有る程度経過した後の話となっている。
なので、むしろ、2と3幕の間では、
「時間の経過により、ミミとロドルフォの間には「心の隙間」が
 生じていたのだ」
ということを感じさせる意味でも休憩を置いても良かったと思う。
少なくとも、ホモキ氏が狙ったような「映画的な連続した緊迫感」
というような点において特別意義深い時空が形成されたとは
私には想えなかった。

【これら2つの特色からのイメージについて】
こうした「空間を広く使った手法」と「休憩なし」によって、
前者では通常の演出での室内という具体的な空間ではなく、
ある種抽象的な空間をイメージさせたという点で、例えば
ヴィーラント・ワーグナーによる、余分な要素を排した抽象的な
バイロイト様式を(少しだが)連想したし、後者では、
2008年にプッチーニ生誕150年記念として
ドイツ・オーストリア合作作品としてアンナ・ネトレプコと
ローランド・ビリャソン主演により映画化された作品に対する
厳しい抗議、真面目な批判のようにも私には想えた。
あの映画は、
「ネトレプコとビリャソンが本当にキスを何度も何度も必要以上に
 するシーン」があったり、
「ベッドシーン(といっても、もちろん「動作」はなくて、半裸に
 近い状態でベッドの中に2人がいるシーン)」があったりという
「通常は まず無い演出、見ようによっては、まるで
 三流メロドラマのような演出」だったのだが、
それ対する厳しい抗議、批判のようにも私には想えたのだった。

【終幕に象徴される演出のテーマに関する結論的な感想】
ホモキ氏による演出の最大のテーマ、狙いは、終幕で見せた
「成功を収めて飲んだくれている男たち、それが可能な男社会」と
「そういう成功とは縁の無い弱い立場にあった女性の悲劇的な死」
に力点を置き、それを際立たせるための、
「終幕では屋根裏部屋ではなく豪華なレストランに飛び込んでくる
 瀕死のミミ」という演出を施した、ということだと思うし、
そういう狙い自体は理解はできるのだが、しかし私には
このドラマ自体が持つ力、プッチーニの繊細にしてドラマを内包
した歌そのものが持つ力、ドラマツルギーといったものを
結果としてかえって弱めるかたちになってしまったように想える。

そしてミミの臨終の場面で、ロドルフォを「悲しみのメイン者」
として置くのではなく、最後にムゼッタ1人がミミに寄り沿う
かたちとしたエンディングは、冒頭に触れた「ばら」の
伯爵夫人が1人残るシーンを連想させて印象的だったが、
しかし、ムゼッタがただの「尻軽女」や「あばずれ女」ではなく、
少なくともミミに対しては心優しい思いを抱く友達思いの
奥深いヒダの情感を持つ女性であることは、このオペラを知って
いる人は皆感じて理解している点であることを考えると、
そう特別変わった演出とは言えないとも言える。
印象的ではあるが、ここでも「女性の地位を含めた悲しみ」を
強調したために、かえって(先ほど述べた)
「本来の男女の感情としての複雑さを逆に弱めてしまう」感じが
してしまったことは否定できないように想える。
やはりオーソドックスに、ロドルフォがミミに一番近くに寄り添う
かたちであっても良かったと思う。

ちょうどこれを書いている時期、4月1日付、朝日新聞夕刊に
赤川次郎さんが連載中の「オペラに行こう!」改め、
「芸術三昧!」の文中、新国立劇場でのワーグナーの
「神々の黄昏」に関する感想として、
「最近の「現代風演出」が、しばしば味気なく感じられるのは、
 妙にリアルになることで、かえって物語の無理が
 目立って来るからだろう」
と書いていらっしゃるが、そういうことだと想う。

【ホモキ氏の個性】
ただ、優秀な音楽家が多い時代とは対照的に、優秀な演出家が
世界中でもごくわずかしかいない中、ホモキ氏が注目すべき存在
だと思うのは、例えば、
「ワーグナー作品を背広スーツ姿で演出するというような、
 舞台や演出家に向かって石を投げたくなるような
 バカげた演出をやるような人ではなく」、
今回のように、「ばら」ほど成功したとは思えない内容であっても
「何かしら、聴衆、観客に考えさせる要素を確実に入れてくる
 演出をやってのける人」だからだ。

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歌手の皆さんについて
本来、一番最初に書くべき歌手のことが最後になってしまった。
ダブルキャストなので、28日のメンバーに限っての感想になる
のは言うまでもない。
全体としては特に不満を感じる人はいなかったが、
「理想的なロドルフォ、って、やはりなかなかいないなあ…」
ということは感じた。
(なので、歌手名はここでは一応伏せる)

ミミを歌われた、今やベテランの域の澤畑恵美さんを聴くのは
久しぶりで「最近の調子はどうなのだろう?」という感じで
聴き始めたのだが、「想像以上に立派な歌唱」だった。
後日情報だとカゼぎみで苦しんでいたそうだが、
あまりそれは感じさせず、いやかえってそのためか、
声から出る「情感の深さ、鬼気迫る感情移入」は見事だったと
言える。失礼な言いかただが、
「この人の才能をあらためて見直した」というところ。

ほかでは、コッリーネ役の、今回のダブルキャストで唯一の
非日本国籍、中国出身のジョン・ハオさんの声が立派だった。

この物語のほとんど主役に近いといえるマルチェッロも、
ロドルフォほどではないかもしれないが、それでもなかなか、
「これこれ、この人ピッタリ、という感じの人は案外少ないなあ」
という思いを多くの録画、録音を含めて折々感じてきている
のだが、今回も幾分そうした感想をもったことは正直なところ。
(なので同様に、歌手名は一応伏せる)

さて、ムゼッタの臼木あいさん。
別の日の同役の中嶋彰子さんが見た目からして
「いかにも」という感じなのに対して、
ある種「もっとも対照的な」、
ある人いわく、「あて馬的なキャスティング」だったわけで、
それを敢えて選出して指名した陣営側の「ある種の野心」を
感じさせて興味深かった。
声のコントロール、流麗な声の質感等、歌自体は申し分ないが、
やはり「この人がミミだったらどんなに良かっただろう」と
思わないわけにはいかなかった。
先述のとおり、澤畑さんは素晴らしかったのだが、
「無垢さを残した繊細さ」という感じを、臼木あいさんなら
更に打ち出せたかもしれない。
ご本人も「いつか、ミミを歌いたい」という希望を持たれている
ので、その日を楽しみに待ちたい。

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