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2010年3月 6日 (土)

「感動をありがとう」という言葉に関する所感

最近発売された「週刊朝日」の表紙に、浅田真央選手の写真
とともに次の見出しが書かれていた。
  「感動をありがとう」

私はこの表現、言い回しが「好きではない」。
でも、こういう表現をする人はマスコミの他、街頭インタビュー
でもよく目や耳にするので、一般の私たちの中でも多くの人が
しばしば使うことは認識しているし、私も「嫌い」、とまで
強く言う気はないが、しかし、実際、例えば、
ここ数週間の中で書いたバンクーバー五輪に関する話題、
カーリング、モーグル、フィギュアスケート等の話題中で、
私は一度もこの言葉を使っていないことは事実だし、
今後もどんな事象に対しても使うことはないと思う。

以下では、この言葉やこの表現を使う人への批判ではなく、
「なぜ、私がこの表現が好きになれないのか?」という、
自分自身の心理を探る、いわば「自己分析」を少し行ってみたい
と思う。

なお、「サンデー毎日」も真央さんの写真とともに、
「感動」という言葉こそ用いて(書いて)ないものの、
「ありがとう」と、大きく見出しで書いている。

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ビクトル・ユーゴーの言葉を引用するまでもなく、アーティストは
「自分が感動しなければ人を感動させることなどできない」
ということを本能的に知っている。
感動させること自体が目的というのは正確ではない。
しかし、自己満足や自己陶酔を超えて、多くの人々に伝わる
ほどの完成度を、その作品だったり、演奏だったりという
パフォーマンスに求めて追及していることは事実であり、
「結果として」、
「楽しいひとときを過ごしてくれたら、喜んでくれたら」は
もちろん、さらに進んで、
「何かの役にたってもらえたら、とか、希望を与えるキッカケに
 なってくれたら、とか、心の支えになってくれたら」と
思い描くことは自然だし、それ自体が創作や活動の力源泉にも
なっている場合もあるだろう。

「結果として」、ここが肝心でかつ難しいところだと思う。
アーティストは創作や活動に自己実現とそこからそれを超えた
ところでの人々との結びつきとしての称賛が得られることを望むし、
アスリートは競技における優賞とか、とにかく自己最高の
パフォーマンスとその結果として競技での勝利を得るべく、
日夜研鑽しているのだ。

私が「感動をありがとう」という表現を好まないのは、
何かそう言ってしまうと、
「観たり聴いたりする側の、そのときの自己の感情だけを言って
 いるような感じがする」点が気になるのだ。
もっと言うと、
「アーティストやアスリートのそれまでの血の滲(にじ)む鍛練や
 葛藤、血ヘドを吐くような苦しみに対して全く考慮せず、
 観客、聴衆として自分は楽しませてもらったよ、という
 ことだけを言っているようで、創作者、演技者、演奏者等
 に対する敬意という配慮が感じられず、言ってみれば
 とても失礼で、軽い言葉に思えてしまう」、のだ。

そういうことから、私はその表現が好きになれないのだと思う。


3月2日の朝日新聞「声」の欄に、宮城県の77歳の女性が、
次のような主旨の投稿をされていた。
「五輪選手などが、ときおり口にする「皆さんに感動を与えたい」
 との発言に違和感を感じる。私達は音楽・演劇・映画・文学
 などに接し、心を揺さぶられ、感動して拍手を送るが、
 これらの表現者たちは感動させること自体を目当てに
 活動しているのではないだろう。
 何らかのメッセージを伝えようと創作し、演技し、制作する。
 鑑賞する側はそのメッセージを受け取り、共感・共鳴し
 拍手するのだ。
 スポーツ選手が目指すのは「勝利」のはず。そのために
 全力で戦う姿を見て観客は拍手を送る。
 選手たちは自分が目指す「勝利」そのものを率直に
 自分の言葉で語ったほうがようのではないか」、と。

アーティストはとアスリートを全く同じに論じることは
多少無理があるにしても、共通点もあることは確かだろう。
論旨としては私が先に述べた内容と共通していると思う。

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