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2010年2月15日 (月)

「一段一段」 上村愛子さんへの1つの賛辞

讀賣新聞夕刊「よみうり寸評」は冒頭こう書き出している。

「<なんでこんなに一段一段なんだろう>
 読売も朝日、毎日、東京も各紙そろって上村愛子選手の
 この言葉を大きく見出しに取った」

そのあとに続く文も、なかなか素敵だった。

ただ、実は正確には少し違っていて、その4紙のように
第一面ではないものの、日本経済新聞も第35面、すなわち、
いわゆる「社会面」に、こう題して掲載している。
 「なんで一段一段なんだろう」

日本を代表する新聞各紙(たぶん、地方紙にも同例があったかも
しれない)が、偶然にも一斉に同じ見出しをつけたことは
確かに珍しいことだと思うし、それに触れた「よみうり寸評」も
「粋」で良かった。
オリンピックということもあるが、日本経済新聞がスポーツの
ページ以外のページで、スポーツ選手の話題を
(それも相当大きなスペースを割いて)掲載すること自体、
珍しいことだ。

「美人。名前の如く、とても愛くるしい、可愛い人」という要素は
あるだろう。しかし、それだけは決してないことも、
改めて言うことでもまたないだろう。

本人への失礼を承知で言うなら、
「メダルを逃した選手で、これだけ「爽やかな」印象と、
 「いっしょに胸を熱くする思い」を多くの国民に与えた
 スポーツ選手というのは、過去にあまり記憶にない」、
という気がする。

「偶然」とはいえ、長野大会の7位から今大会まで、
6位→5位→4位、という「上昇」は凄いことだと思う。
もちろん、その折り折りでの本人の熟練度(獲得しているレベル)
や、その日の調子、そして当然、その折り折りのライバル選手
の面々と彼女たちの熟練度や調子、はたまた競技施設の雪や
傾斜等の要素等々、毎回毎回全く異なる条件での滑走、結果、
というころだから、極論すれば、どの選手においても、
その大会での結果はある意味では「偶然に過ぎない」と
冷淡に言えないこともない。
「全ては<相対的な偶然>に過ぎない」、と。

しかし、それにしても、上村愛子さんに関する「偶然」は、
「なんという偶然なのだろうか」、と思う。
「ちょっと酷、「悪戯(いたずら)」が過ぎる結果」かと、
神様にクレームをつけたくなった人も多いことだろう。


上村さんがモーグルを始めたきっかけは、小学生時代から続いた
という自分に対する「いじめ」からの逃避にあったとは、
今のような「誰からでも愛されるような愛子さん」からは
想像もつかない話、全く信じられない話だが事実とのこと。
中学2年の冬、スキー部をやめ、母親の薦めもあって1人旅として
向かった先が、知人のツテで選んだバンクーバー。
1993年の暮近くのことだった。
いくら事情が事情とはいえ、中学生の娘さんを1人で海外に
出したお母さんもお母さん。
凄い決断と驚くし、それを受け入れて旅立った愛子さんも、
もはやこうなると「運命」以外の何物でもないようにさえ思う。

バンクーバーで初めて見た「モ-グル競技」。この地でも、
「出会い」に先立って、実は「ハプニング」があった。
ある日、お気に入りのスキー板が盗まれた。世話役の人が
「これをはいてごらん」と勧めたのが「モーグル用の板」。
しかも、その世話役の人は現地のモーグルチームとも交流があり、
愛子さんがこの種目をVTRも含めてつぶさに見た後、2週間後
長野県白馬の実家に戻り、母親に言った。
「私、モーグルをやる」
だから、バンクーバーでの戦いは彼女にとって「別格」「格別」の
思いがあった。


「一段一段」という言葉に、ある人はもしや「哲学的な意味合い」
さえ考察する手がかりとするかもしれない。
いずれにしても「一段一段」は容易(たやす)いことでは全くない。
それどころか、そうした「地道な進化」はもっとも難しく、
もっとも尊敬に値することかもしれない。
「偶然」ではあっても、だ。

「いじめられっ子だった中学生の愛子さん」が、美しい笑顔で
モーグル競技で4度もオリンピックに挑み、涙した姿に
多くの国民は熱い声援と拍手を贈った。
この「飛躍、飛翔」は、愛子さんが自身の人生を
「一段階以上、遥か数段階さえを飛翔したものだった」と
称賛されて然るべきだろうと信じる。

おつかれさま。愛子さん。

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