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2009年12月27日 (日)

映画 「戦場でワルツを」 批判的見地から

私はアニメーションや、あまりにもCGに頼った映画は
あまり好きではない。というか、最終的には「人間」が
演じる作品に「敵(かな)うわけはない」と思っている。
2008年のカンヌ国際映画祭で話題となり、同年アカデミー賞
の外国語映画部門で「おくりびと」と受賞を争ったことでも記憶に
新しい、アニメ手法による映画「戦場でワルツを」は、
それを良い意味で裏切ってくれるかもしれない、との期待で観た。
だが、その結果は、そうした期待自体が裏切られた、
と言わざるをえない。

手法の斬新さは認める。アニメーションならではの、あるいは、
アニメだからこそ可能だった描写や表現等々はあるとは思う。
また、紛争の絶えない中東においては、「一事件」として
忘れられていく、あるいは為政者や軍人が忘れさせようとする
ことから、あらためて掘り起こして問題提起した、そうした功績
も認めたい。

しかし、では、何が不満なのかと言えば、
「自己批判しているのなら、それが中途半端で未だ甘い」
と思える点だ。

その前に、概要をいちおう記すと、事件は1982年、
イスラエル軍のレバノン侵攻時に起きた実話に基づく。
親イスラエルのキリスト教マロン派民兵勢力であるファランヘ党の
指導者からレバノン大統領になったパシェール・ジェマエルが
テロで死亡したのをきっかけに、イスラエル軍が包囲していた
難民キャンプのサブラとシャティーラに、フェランヘ党の兵士が
報復目的で入り、同年9月16日から18日にかけて、
女性と子供を含む3000人の民を虐殺したとされる
「サブラ・シャティーラ事件」と言われるもの。
周辺のイスラエル軍も、その最中、そうしたことが行われている
ことを知りながら黙視していたとされ、後に、当時、イスラエルの
国防相だったシャロンは、国際的世論=批難を受けて、
引責辞任に追い込まれている。

今回の主人公は正に当時、そのイスラエル軍の1人として従軍
していたアリ監督の「記憶」に基づいて設定されている。
劇中の主役、映画監督アリ・フォルマン氏自身の分身でもある
アリにしても、戦場での同僚だった者へのインタビューとして登場
してくる彼の周辺の人物にしても、
「(虐殺についての)記憶がない」、「記憶があいまい」という言葉、
心理状態、状況などは、結局のところ、「逃げている」、すなわち
真実からも、自己保身という意味からも「逃げているにすぎない」
という批判は容易に可能だと思う。先述の、
「自己批判しているのなら、それが中途半端で未だ甘い」
という意味はそういう意味であり、アニメという手法で、
監督自身の母国であるイスラエル、あるいは、中近東における
戦争状況を告発、批難している、というのであるのなら、
その「勇気」は認めるけれど、同時に、その手法や話法が、
「どう考えても甘い、中途半端。自己弁護的。自己正当化的」
に思えてしまうのだ。そうした、
「中途半端な告発姿勢、自己保身と背中あわせの煮え切らない
 語り口、手法」が、私にはいささか苛立(いらだ)たしい。
もちろん、この事件に関しては、イスラエル軍が直接的に関与
していたのではないのだが、しかし、幇助(ほうじょ)していた
という側面は否定できない。
それを「反省」したいのか?そうでないのか?
その点が「相当あいまい」なのだ。

そして、決定的なことはラストシーンに象徴的に現れる。
映画の最後で、当時の実際の生々しい映像が映され、
観客は皆、誰しも衝撃を受ける。
一般人民への虐殺という、当時の実際の映像。
そして、その映像により、少なくとも私の中では、それまでの
アニメーションによる物語そのものがほとんど記憶の外に飛んで
しまったのだ。それはとりもなおさず、
「事実や映像が、創作とアニメーションに勝った」
ことに他ならない。
「実映像が出たことにより、それまでのアニメ映像が負けた」
ということは、作品としての「弱さ」を物語るものであり、
結局のところ、
「映画作品としては失敗している」、と言わざるをえない。
よって、結論的には「期待外れだった」、としか言いようがない。

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