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2009年4月26日 (日)

新交響楽団定演 マーラー第6交響曲 圧巻の終楽章

新交響楽団 第205回定期演奏会を聴く。
新響のマーラーというと、近年では2007年の9番が圧巻
だった。今回は第6番。指揮は9番と同じ高関 健さん。
今回はこのオーケストラとしては初めての「対抗配置」という
ステージ上のセッティングをとった(注記参照)。

この曲は、マーラーの9つの交響曲、そして「大地の歌」を
含め、(未完の第10を除いて考えた場合)、
もっとも「古典的」な様式を持っていることでも知られる。
典型は第1楽章で、20分(以上)を要する巨大な内容では
あるが、スタイルとしてはソナタ形式を基盤としている。
しかし、終楽章の、それ自体1つの大宇宙とも言えるような
巨大な世界を描き出すことは大変困難な作業を伴い、
マーラーのその10曲の中では、純粋に器楽的なスキルという
面においては、個々の技術においても、その総体としての
合奏技術とにおいても、おそらく最も難しい曲、と言えるかも
しれない。

もちろん、9番の精神的な深淵さ、7番の複雑な構成、
5番のロマン性と虚無性のバランスに加え、
対位法の極値を極めた終楽章を持つ5番等々も、
それぞれ難曲ではあるが、この6番は、純器楽作品の、
最も巨大にして難関なソナタ構成を持ち、オーケストラとして
古典的なスタイルにおける最高度の技術を要求される作品
と言えるだろう。

第1楽章の冒頭は、コントラバスとチェロが刻むリズムの音から
して充実していたが、テンポがもうほんの少し遅いほうが、
もっと弦全体の響きが確保できたのではないか?と思った。
「1分間に6秒くらい遅くしたくらいの」テンポなら、すなわち、
もうほんの少しだけ「余裕」を持ったテンポなら良かったのに、
と。
理由はヴァイオリンとヴィオラの響きが管楽器に埋もれて
しまう感じがして、テンポの中での響きにうまく融合していない
感じがしたからだ。
しかし、もちろん、アマ、プロを問わず、指揮者の解釈に従う
ことを当然の基本とするのがオーケストラの「宿命」なので、
これは致し方ない。
ただ、先述の、「対抗配置」が生かされている、とは正直全く
思わなかった。いや、かえって、ヴァイオリンの音量の問題も、
結果、その配置に問題があるように、私には思えた。
第2主題、いわゆるアルマのテーマは、とても丁寧に広々と
したフレージングで歌い、素晴らしかった。

第2楽章と第3楽章は、マーラー自身も初演時から「迷った」と
言われているように、スケルツォとアンダンテをどちらにもって
くるか、という問題がこの曲にはある。
スコア上も録音やライブ的にも今、「メジャー」なのは、
第2楽章がスケルツォ、第3楽章にアンダンテ、とする版に
よる演奏だが、今回、高関氏が選んだのは、逆で、
第2楽章をアンダンテ、第3楽章をスケルツォ、とした。
私の印象では、結果的にはその逆、
スケルツォを第2、アンダンテを第3楽章にしたほうが
良かったように思った。

理由としては、今回ように、アンダンテを先に演奏してしまう
と、ゆったりとした気分を表現したステージ上の奏者達に
しても、「ゆったり、に浸った聴衆」 にしても、第1楽章と
「近親」の内容を持つ(第1楽章よりは「ラフ」にしても)
スケルツォを後にもってくると、その緊迫感を再度表現したり、
感じたりするのに、やや時間が かかる、というか、
「取り戻さねばならない」感、のようなものを感じてしまうのだ。
なので、奏者=団員はシンドイ(疲れる)とは思うが、
第1楽章と近似の流れのままスケルツォを奏して、
ゆったりのアンダンテに入ったほうが、その「いっぷく感」
こそ、最後の巨大で偉大で難関な宇宙的終楽章との
対比感という意味でも、より意義深いように思えたのだ。

そしてその3つの楽章が終わり、いよいよその終楽章に
入る前に、再度チューニングを入れたことは、
演奏者側としてはよく理解できるが、聴き手側からすると、
第3楽章がスケルツォであってもアンダンテであっても、
続けて、すなわち、ほとんど間を開けずに、
あの「地獄への入口のような終楽章の開始」を奏したほうが
より効果的であるように思えた。

それにしても、なんというスゴイ終楽章だろう。
ここでは、奏者1人1人の、そして合奏体全体のスキル、
レベルが否応なく露呈してしまう、さらけ出されてしまう、
という「恐ろしい楽章」だ。
これまでの、1~3楽章も実にハイレベルな演奏ではあった
のだが、仮に他のアマチュアオケでも、新響のように3か月
ではムリにしても、半年か1年注力すれば、これに近い内容
の演奏は可能かもしれない。
だが、この終楽章でいかんなく発揮された新響の実力は、
間違いなくこの国最高のアマチュアオーケストラのレベルを
示した、と言える。これだけの演奏を、わずか3か月ほどの
間に仕上げてくるとは信じ難い力量だ。
ここで演奏されたレベルを、他のアマチュアオーケストラが
やろうと思ったら、きっと1年間の練習期間でも足りない
はずだ。

東京芸術劇場を埋めたほぼ満員の聴衆は、マーラーの
この曲の、特に終楽章の偉大さと、このオーケストラの
驚異的な演奏レベルにあらためて驚嘆し、敬意を覚えた
に違いない。
終演後、ロビーからホール外までの間、これほどお客さん
たちが、いっしょに来た人と、今聴いた演奏について語りながら
歩いている様子を見れる演奏会というものは、
そうそう毎回どこでも見られるわけではないから。
熱い思いで帰途につかせていただいた聴衆は幸いであったし、
それをもたらせてくれた新響に、感謝と敬意を払いたい。

(注)対抗配置;一般的な配置と異なり、ステージに向かって
  右側に第2ヴァイオリン(第1とシンメトリックに配置)、
  コントラバスを(右奥でなく)左奥、チェロも(通常の右や
  右奥ではなく)中央より左に配置するもの。
  ムラビンスキー時代の旧レニングラード管弦楽団など、
  いくつかのオ-ケストラ(主に常任指揮者の意向により)
  は、かつてそれを用いていていたし、現在も少ないが、
  在る。

なお、この日は、前プロとして、ウェーベルンの
「管弦楽のための6つの小品」が演奏されたが、所用で
間に合わなかったのと、もともと興味の無い作品なので、
拝聴してもろくなコメントは書けなかったと思う。

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