ヘルマン・ヘッセとブラームス イメージをイメージする
ウィルヘルム・フルトヴェングラーは、1954年6月5日付で
ヘルマン・ヘッセ宛に次のような手紙を書いている。
「お手紙を頂戴し、このうえもない幸せを感じております。
私どものコンサートにご来駕いただけるかもしれないと考えて、
演奏旅行でしばしば演奏しておりましたブラームスの名を
プログラムからはずしたことは、当然の措置でございます。
(中略)
お目にかかる折りこそありませんでしたが、もう長いこと
私は心からあなたを敬慕してやまないものの1人です。」
ヘッセはブラームスをあまり好んではいなかったため、きたる
演奏会に、ヘッセが来場することを知ったフルトヴェングラーが、
かねてより尊敬していたヘッセにこうした手紙を送付している
のが興味深い。
ヘッセの、あの内向的で詩的で緻密な文体からは、ブラームス
にも似た、あるいはブラームスに共通するかのような情感や
作風を感じるのだが、これはどうやら私の勝手なイメージに
すぎないようだ。
それでも、ヘッセでは、多くの美しい詩のほか、
あの「ペーター・カーメンチント」(邦訳=「郷愁」)の、
特に冒頭の雄大でロマンチックな情感とか、「デミアン」の
もつ内的な不思議なパワーとかは、ブラームスの、例えば
第4交響曲の深い霧や森に起ちこめる秋の静寂さ、あるいは、
第2交響曲の、どこまでものどかで内省的な美しい田園スケッチ、
第3交響曲の内鬱な佇まいの中に秘めた熱いエネルギーなど
にも通じるようにも思えてならない。
ヘッセは絵もよく描いていたが、その素朴なタッチからも
彼の作風は、ワーグナーのような、偉大ではあるが、
ドロドロとした劇的な「毒」に満ちた作風とは随分異なるように
思えるが、もっとも、人間は「自分に無いものに憧れる」という
面もあるので、ヘッセが意識しようとしまいと、彼の興味は
自分とは随分異なるところで創作していったワーグナーの
魔力的なエネルギーにこそ、より関心や嗜好が有ったのかも
しれない。
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