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2009年3月11日 (水)

曽野綾子氏への疑問 「犠牲の累進性」にどう答えるか?

曽野綾子さんがこの日の日本経済新聞夕刊の最終ページの文化欄
に、「日本で貧困 ありえない 世界に目を 甘えを捨てよ」と
題して寄稿している。主旨としては今更目新しい論調ではなく、

 「貧困とは、その日、食べるものがない状態。
  日本には世界レベルでいう貧困な人は1人もいない。
  コンビニにも食品があふれ、生活保護が受けられれば、
 (あるいは)職が見つかれば食べられる、という状態は
  真の貧困とは呼ばない。
  本人だけでなく親類中、あるいは村中のどこを探しても
  食べる物がない状況が世界レベルの貧困だ。
  アフリカではエイズと判ると、その子に食べ物を与えない
  場合もある。難産の妊婦がいても救急の組織も無い。
  日本でも産婦人科医の不足や救急医療の不備が叫ば
  れてはいるが、私たちは病気になれば病院に行き、
  治療を受けられるのが当然と考えることを許されている
  だけ恵まれている。そうした発想自体が有り得ない国は
  多い。地球上には解決不能な貧困と飢餓を抱えた地域
  がヤマと在る。それに比べて日本の貧困は解決可能だ」

と書いている。
もちろん一方的に「弱者」を批判しているわけではなく、
「日本の現状は適切な対策が講じられていないということ
であり、絶望することはない」と、いわば激励の意図は
あると読み取れるし、主旨が解らないわけではない。

しかし、それでも、曽野氏の主張にこそ「違和感がある」。
こうした、「もっと困っている人達を例に出して論じること」
について、雨宮処凛氏は、既に2年ほど前から、これを
「犠牲の累進性」と名付け、
「こうした主張をしてみても何ら解決はしない」、という考えを
述べている。私も雨宮氏に与(くみ)する。
ちなみに、雨宮氏は、石原慎太郎都知事と対談したとき、
「私がネットカフェ難民やフリーターの貧困の話をすると、
 石原氏は、やれルワンダはこう、ウガンダはこう、と
 話し出した。そういう例ばかり言っていた」
との逸話を、その折は述べていた。

先述の曽野氏の文面についても「誤認」あるいは「欺瞞」
が見てとれる。「甘え」の有無は、個々の濃淡は別として、
全て否定しようとは思わない。「甘えている人も存在する」
のは事実だろう。しかし、同時に、
「部屋で一人、誰にも気づかれずに孤独の内に餓死する
 人が生じてきていることも紛れもない事実」なのだ。
だから、曽野氏の言う、
「世界レベルでいう貧困の人は日本には1人もいない」との
主張に対しては、
「自分で日本のあらゆる現場に足を運んで調べたのですか?」
 と問いたくなるし、もっと言うなら、
「あなたは我が国内の、難しい状況にある人に対し、
 その中の1人に対してでも、何か「援助」をしましたか?」と
問うてみてもよいだろう。あるいは、アフリカの話にしても、
「世界には解決不能な貧困と飢餓がある、と「冷静に」
 決めつけるのは、それこそそういう人々や地域に対して
 失礼じゃないですか?解決可能かもしれないじゃない
 ですか。いや、解決していこうと考えるべきでしょう?」
とも問えるだろう。
敢えて具体的に言おう。
「あなたは、「もやい」に、千円でも寄付しましたか?」と。

ユダヤの人々の諺(ことわざ)に、
「1人の人を救う人は、世界を救う」というものがある。
映画「シンドラーのリスト」でも引用されていた。
これを逆に言うなら、
「1人の人を救えない人が、なぜ世界の貧困を口にする
 のですか?」と、問えないこともないと思える。

単純な世界比較論は戒めるべきだし、現実問題としても
それ(そうしたことを言うこと)自体、意味が無い、と思う。
「今、身近な人で苦しんでいる人に手を差し伸べない人は
 海外の苦境にある人に手を差し伸べることなど、
 将来においても絶対に無い」
と言い切ってよいと思う。

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