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2007年9月21日 (金)

小池真理子さんの解説文より

2004年4月に自殺という痛ましい死を選んだ鷺沢萠さんの「失恋」
という作品のその文庫本化に際して、亡くなる3ヶ月前に、
小池真理子さんが解説文を書いている。
それは解説というより、恋愛小説の名手である小池氏自身の
恋愛についての直裁的な言及であり、ごく解り易い文であるが故に
あまりにも印象的な文なので、申し訳ないが、少し引用させて
いただきたい。

「恋とは畢竟、不条理なものである。人が人を恋しく思う気持ちは、
必ずしも相手に正しく伝わるとは限らない。伝わったとしても、
こちらが望むような反応を返してもらえないこともある。あるいは
また、不思議なことに、恋しく思えば思うほど皮肉にも冷静に
なって、相手との決定的な距離を正しく認識してしまうこともある。
違う、何かが違う、自分とあの人とは違い過ぎる、似合わない、
うまくいくわけがない・・・そうわかっていたとしても、それでも人は
人に恋することをやめない。彼(もしくは彼女)とはまったく生きて
いる環境も違うし、価値観も違う、性格も真反対で、接点など
何ひとつない・・・などと頭で認識したところで、恋が恋である以上、
相手に向かうパッションは決して揺るぎはしないのである。
  (中略)
嫉妬心、猜疑心、切なさ、焦がれる想い・・・そうしたものは
恋をした人間にとってはお定まりの感情だが、我ながらに呆れ返る
ほどの烈しい感情曲線の中に、恋の意味が潜んでいる。
 平穏でのびやかで、ひたすら建設的な恋は多くの場合、結婚と
いう形式を経て、別のものに昇華されていく。
 感情の乱れと或る種の破壊願望は恋にはつきものであり、
それが苦しいからといって逃げていれば、確かに失恋はしないかも
しれないが、恋は単なる「恋」という名のゲームに過ぎなくなる。
 人は恋をし、恋を失い、苦しみ、また懲りずに恋をしながら、
一生を終えるのだと思う。
 (後半省略) 」

見事である。ごくありきたりのことを言っているが、それ故、実に
見事に言い得ているような気がする。

20代のころの「失恋による涙」というものは嘘のように忘れてしまって
いる。あんな純真で熱い思いのたぎる時代もあったのだという思いと、
あれはひどくコッケイでバカげているとさえ思う気持ちさえ、今はある。
それほど、自分は「堕落」してしまった、と言えば、そうだと思う。
中原中也のように言えば、「汚れっちまった悲しみに」というところか?
純粋な時代に比べれば、本当に自分の心は「汚れて」しまったと思う。
それはもちろん、誰のセイでもあるわけではなく、自分自身の問題だ。

世の中には、学生時代等に特に大きな恋愛など経験しなくても、
社会人となり、会社関係等周辺で知り合った異性と「ごく常識的に」
「ごく健全に」結婚されて、立派な家庭を作れている人もたくさんいるし、
そのほうがむしろ「普通」なのだろう。
それがえきないのは、ただの不器用者か偏屈者、ということも
あながち間違えでは無いかもしれない。
でも、世の中には、そう生けれない人もいるし、そもそも結婚自体に
あまり意味を見出さない人も(特に昨今は)増えているかもしれない。
私は後者ではないが。

それはともかく、では、いや、でも、かと言って、今でも
「大人になりきれていない」ウブで密かな思いと完全に決別して
いるのか、というと、最近は、そうでもないのか、という気もしないでは
ない。
それは、誰かを思っているからなのか、そうではなく、
人生の後半に入っているという、ある種の感傷からなのかは、
よく解らないのだが。

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