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2007年2月11日 (日)

君はクチンスカヤを覚えているか? ナターシャに恋して

1月8日のブログ、「ベラを救え チャスラフスカさんに寄せて」
と「リュドミラ・ツルシチェワさん」の文は、後藤正治著、
「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」を読んだことからの文
だったが、その著作の中で、正直に言うなら最も関心を持って
読んだ部分は他にあった。

1968年、小学5年生のとき、メキシコ・オリンピックが
あった。当時、よほどのお金持ちでなければ、テレビは一家に
1台が当たり前で、しかもまだ「白黒」だった。
その白黒画面から映し出される五輪競技に夢中になった。
サッカーの釜本選手、日本の銅メダルは今思うと「奇跡」
とも思える。
そして100M、200M男子陸上のハインズ選手(米国)。
どちらかの表彰台で国旗掲揚の際、黒手袋で腕を高々と
あげた姿も印象的で、子供心には特に違和感は無かったが、
「黒人差別への抗議としての行動。後日問題とされ、メダルを
 剥奪された」ということは後になって知った。
おかしな話だ。別にいいじゃないかと思う。
私たち当時の子供にとって、ハインズさんは英雄だった。
小学校の校庭を友人と駆けるときは、「ハインズごっこ」と
称して全力で走ったものだ。

そして、もう1人、絶対に忘れられない人がいる。
でも、後藤氏の本を読むまで、それは人に聞けない「秘密」で
あって、その人のことを、どのくらいの人が覚えているか、
ということは、何となく自分の中にしまっておいたことだった。
まるで、「星のフラメンコ」の歌詞のように、
「好きなんだけど、黙ってるのさ 大事な宝 隠すように」。

ナタリヤ・クチンスカヤ。
旧・ソ連、女子体操選手。彼女を見たとき、
「こんなにきれいな人が世の中にはいるんだ」と子供心に
思った。美しかった。素晴らしかった。
日本の選手、中村多仁子さんも「みとれるほどに可愛かった」
と言っているそうだから、女性からみてもアイドルだったのだ。
メキシコの男性は大フィーバーし、お嫁に、と
「額面記載の無い小切手」を彼女に送ろうとしていた大金持ち
もいたとかいう話が実しやかに喧伝された。

1949年、レニングラード(現・サンクトペテルブルグ)生まれ。
クチンスカヤの登場はチェコが誇る女王チャスラフスカに衝撃を
与えたし、ソ連同国のラチニナ、ムラトワら先輩選手も
ナターシャを絶賛した。

メキシコ大会で選手村で同室だった、当時まだ新人だった
ツルシチェワは言う。
「私にとってずっと憧れの人でした。明るくて優しくて練習熱心。
 (後年の)コマネチが完璧に仕事をする職人なら、ナターシャは
 インスピレーションのままに心をこめて演技をする人だった。
 ときに完璧さに欠けてはいても」。
「ロマンティックな人で、いつも夢の中に生きているかのよう。
 とにかく、あんなに人気のあった人は他にいなかった。
 その点では女子体操史上、間違いなくナンバーワンの選手」

クチンスカヤは、1966年の日ソ対抗戦で初来日し、
以降3回来日している。しかし、本で知った事実は驚きで、
1991年秋、彼女は大阪府の泉佐野市の「非常勤嘱託職員」
として「バック1つ」で来日し、1994年春までの2年半、
日本に滞在していたのだという。
そんな話題は知らなかった。
ワンルームマンションから自転車で市内の体育館に通勤し、
体操教室で指導していたという。
また、「なんば体操クラブ」のコーチとしても、難波市まで
1人で電車に乗って通ったのだという。全く知らなかった。

明るく、屈託の無い性格、しかも美貌。
当然、関係者周辺の人気はすごかったようだ。
祭りでは神輿を担ぎ、正月は着物を着て楽しんだという。
「出稼ぎ」といえばそうだが、生活上の不満や苦情を口に
することは一切無く、いわんや、人の悪口を言うことなど
一切無かったという。

著者、後藤氏は、現在ナターシャがウクライナ人の夫と暮らす
アメリカ、シカゴ郊外の家を訪ね、インタビューした際の
内容も書かれている。
メキシコ大会以後まもなく引退。1970年代殻1980年代は
キエフ在住。
何度かの結婚と離婚があり、現在の夫と米国に移住。
「ロシアやウクライナが嫌いなわけではないが、
 自分がよりよく生きていける場所を選んだ。
 根っこにあるのはロシア的な文化だけど、それのみを
 愛するのではなく、国に拘らず、コスモポリタン的で
 いたい」、
とする点から、後藤氏は「昨日は昨日、今日は今日、
という「個」に立脚した人生観」と考える。
「アメリカ? 良いところもたくさんあるけど、様々な問題を
 抱えた国。仕事に対する報酬は良いけど、万事お金という
 拝金主義は嫌い」。

そして、チャスラフスカとのことで話題のクライマックスと
なる。
メキシコ大会の直前に、プラハの春の封じ込め策として、
ソ連軍がチェコに軍事介入してきたことから、メキシコの観衆
もソ連選手には冷ややかで罵声を浴びせるシーンすら
競技会場によってはあったが、ナターシャは例外中の例外
だったわけだ。
女子体操も、ライバルとはいえ、五輪以前までは仲良く話せる
状況だったソ連とチェコのチームも、五輪ではチャスラフスカを
はじめ、チェコチームの誰1人としてソ連チームに話かける人は
いなかったという。

ナターシャは言う。
「私はベラをライバルと思ったことは一度もありません。
 尊敬すべき選手としてずっと敬意を払ってきました。
 テクニックもパワーも表現力も何もかも優れていた。
 私は彼女のことが好きなのに、メキシコのときは
 (ソ連のチェコ侵攻のことがあり)口をきいて
 くれなくて・・・」。
「どうしていいか判らなかった。彼女は政治にかかわる人で、
 私は違う人間なんだと思いました。でも、当時も
 私が嫌われたのだとは思いませんでしたし、
 今は彼女のあのときの気持ちが理解できます」。

メキシコ後は、1986年、モスクワで開催された選手権で、
2人はともに審判員として再会し、短い立ち話しとはいえ、
近況を語り合えたのだった。

そして、その後、ベラに「事件」が起こる。
日本のテレビの特集ではあったが、ナターシャは単身プラハに
行き、ベラに会おうと試みている。
事件の判決直後ということもあったためか、ベラは誰とも
会いたくないという心境にあり、このときは会えなかった。

後藤氏は今も機会を見つけてはベラと接触をとろうとしている
ことを知り、ナターシャは「ベラに会ったら渡して欲しい」
として、夫との写真を託したが、そこにはこういうコメントが
添えられた。

「愛するベラ。すっかりご無沙汰しています。私は今、
 アメリカに住んでいます。顔はこんな感じ。
 横にいるのが夫です。後藤さんと今、あなたのことなど、
 いろいろなお話をしました。お元気で。
 いつか会えることを楽しみにしています。 ナターシャより」

ベラ・チャスラフスカとナタリア・クチンスカヤ。
1960年代後半の女子体操界を、人気実力ともに
文字通り2分した2人の「メキシコ後」の人生は、
ある意味では対照的ではある。
2人に間違いなく存在する友情と、国家を挟んでの
微妙な感情は、東欧の歴史をそのまま表出させもする。
ナターシャとベラは、再び会える日が来るのだろうか?
それを心から祈りたい。

愛する私たちのナターシャ、あなたの心が
いつかきっとベラに届きますように。

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